プロジェクトアーカイヴ#5 ふたつの島 KOSUGE1-16 × Nadegata Instant Partyを調べる

ふたつの島
KOSUGE1-16 × Nadegata Instant Partyに関する比較論考

 2021年12月18日(土)より丸亀市猪熊弦一郎現代美術館にて開催される展覧会「丸亀での現在」に、旅するリサーチ・ラボラトリーが参加することとなった。
 そこで私たちは、他の参加作家であるKOSUGE1-16とNadegata Instant Partyを比較しながら調査し、グループ展の制作現場に踏み込み彼らの活動を記録することで、2組のグループについて考える機会をつくりたいと思った。それがプロジェクト「ふたつの島」である。

 リサーチの一環として、2組の活動をよく知る美術関係者をそれぞれから推薦してもらい、両者を考察するテキストの執筆を依頼した。文字数やスタイルには制限は設けずに依頼をしたところ、4名の方が寄稿に応じてくださった。それらのテキストを「KOSUGE1-16 × Nadegata Instant Partyに関する比較論考」としてここに掲載する。


 

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『コスゲとナデガタ、その共通点と相違点』
新川貴詩(Takashi Shinkawa)

美術/舞台芸術ジャーナリスト。1967年、兵庫県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院情報通信専攻修了。出版社 に勤務した後、フリーランスで執筆活動を開始。新聞や雑誌に主に現代美術に関する文章を発表。主な著書に『残像にインストール 舞台美術という表現』(光琳社出版)、主な 編書に『蓬莱山 蔡國強と大地の芸術祭の15 年』(現代企画室)などがある。香川県関連の仕事としては、『瀬戸内国際芸術祭公式ガイドブック』の編集と執筆を第一回目から手 がける。また、著述業に加え、展覧会企画やワークショップ講師、編集者、大学や専門学校の教員なども務める。

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『別にアートでなくていいじゃない』
戸舘正史(Masafumi Todate)

愛媛大学社会共創学部地域資源マネジメント学科 助教、松山ブンカ・ラボディレクター。 松山市文化芸術振興計画に基づく愛媛大学内の中間支援機関「松山ブンカ・ラボ」の事業プログラムのディレクションを行う。静岡県袋井市月見の里学遊館・企画スタッフ(2007‐ 2012)、アーツカウンシル東京・調査員(2012‐2014)、群馬県前橋市アーツ前橋・教育普及担当学芸員(2014-2015)、一般財団法人地域創造・芸術環境部専門職(2015‐2018)、 2018 年6 月より現職。都民芸術フェスティバル(音楽部門)外部評価員、東京都港区文化芸術活動サポート事業調査員等を務める。日本文化政策学会各会員。共著に『芸術と環境』 (論創社、2012)。専門は文化政策、アートマネジメント、教育普及(芸術)、公立文化施設運営、労音研究など。

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『コスゲとナデガタ』
吉田有里(Yuri yoshida)

アートコーディネーター/MAT, Nagoya プログラムディレクター、名古屋芸術大学芸術学部美術領域准教授。1982 年東京都生まれ。名古屋市在住。多摩美術大学大学院美術研究科芸術学専攻修了。2004 年~2006 年芦立さやかとともに「YOSHIDATE HOUSE」(横浜)を運営。2004 年~2009 年 BankART1929 勤務。2009 年~2013 年あいちトリエンナーレのアシスタントキュレーターとして、まちなか展示の会場である長者町エリアを担当。2014 年より名古屋の港まちをフィールドにしたアートプログラムMinatomachi Art Table, Nagoya[MAT, Nagoya]の共同ディレクターをつとめる。

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『《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》の比較―文化政策的意義と美学への応答』
吉田隆之(Takayuki Yoshida)

大阪市立大学大学院都市経営(創造都市)研究科准教授。ゴールドスミス・カレッジ客員研究員。日 本文化政策学会理事、文化経済学会〈日本〉理事。東京藝術大学大学院音楽研究科博士後期課程音楽 文化学専攻芸術環境創造分野修了。京都大学法学部卒、京都大学公共政策大学院修了。博士(学術)、 公共政策修士(専門職)。愛知県庁在職時にあいちトリエンナーレ2010 を担当。研究テーマは、文化政策・アートプロジェクト論。著書に『トリエンナーレはなにをめざすのか 都市型芸術祭の意義と展望』(水曜社、2015年)、『文化条例政策とスポーツ条例政策』(共著、成文堂、2017年)、『芸術祭と地域づくり “祭り”の受容から自発・協働による固有資源化へ』(水曜社、2019年)、『芸術祭の危機管理 表現の自由を守るマネジメント』(水曜社,2020年)など。

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『コスゲとナデガタ、その共通点と相違点』
新川貴詩(美術/舞台芸術ジャーナリスト)

 KOSUGE1-16 とNadegata Instant Party(中﨑透+山城大督+野田智子)との共通点のひとつに、笑いが挙げられる(以下、本文ではKOSUGE、Nadegata と略す)。というのも、両者の一連の作品は、いずれも笑いという要素が大きな役割を担っているからに他ならない。では、それぞれの作品について具体的に見ていきたい。
 2021 年2 月、KOSUGE が東京都墨田区で《どんどこ!巨大紙相撲~北斎すみゆめ場所~》 を実施した。これは、画期的な出来事といっていい。また、約17 年もの長期にわたって続 いてきたこのワークショップの達成を見たともいえる。
 《どんどこ!巨大紙相撲》とは、2004年の東京都現代美術館を皮切りに、北海道から九州まで全国各地でKOSUGE が繰り広げてきたワークショップ・シリーズである。参加者がダンボールで制作した背の丈およそ180センチメートルのほぼ等身大の力士が競い合って紙相撲のトーナメントを行うプログラムだ。どこの地域で開催されても、ちびっ子から大人 まで巻き込み、真剣に遊ぶ姿が見られたものである。
 その紙相撲大会が、ついに大相撲の聖地・両国の位置する墨田区で実行されたのである。これまでもこのワークショップは各地の地元の人々の多大な協力のもと成り立ってき たが、今回の墨田区ならではの気合いの入りぶりは目を見張るほどだった。試合に先だって力士の名を告げる呼出(よびだし)は、本職の方が務めた。また、元力士にして今は相 撲甚句で名を馳せる大至伸行が美声を披露した。さらには、懸賞品の提供者には、こともあろうに日本相撲協会も名を連ねた。そうそうたる面々であることは、いうまでもない。
 この呼出や相撲甚句がめっぽう面白い。むろん本人たちは大真面目に声をあげているのだが、真面目であればあるほど、くすくすと笑いを誘う。紙相撲のはずなのに、力の入れ方を間違っているのではないだろうか、と。これは、他の場所でも同様である。大の大人が真剣な眼差しで血気盛んに土俵を叩く姿には、やはり笑いを誘う(墨田区ではコロナのせいでオンライン開催となり、その姿は残念ながら見られなかったけれど)。
 このように、作為性のない笑いが《どんどこ!巨大紙相撲》にはある。なお、それは KOSUGE の他の作品でも同様である。いくつかの例外を除いて大半のKOSUGE の作品は鑑賞者が参加して成り立つものであり、どの作品も朗らかな笑いを伴って受け入れられる。作為性のかけらもない、自然な笑いが絶えず起きるのである。
 同じように、Nadegata のどの作品も笑いが重要な位置を占める。だが、その笑いは KOSUGE とは異質である。その事例をいくつか見てみたい。
 たとえば、「六甲ミーツ・アート 芸術散歩2010」で発表された《OFF COURSE HILLS》 は、回遊型のインスタレーション作品である。普段は使われていないレストランの随所に オブジェや映像などを設置し、ミステリー風のストーリーの設定のもと、鑑賞者が会場内 を巡りながら見る趣向である。そして、この作品にはさまざまなタイプの笑いが用意され ている。丘に立つハリウッドの白い文字看板を模した作品名とグループ名といったもじり に始まり、音声ガイドのくすぐり、8歳の時の山城大督の顔写真という内輪ウケ……。つ まり、いずれもあらかじめ準備された笑いである。
 また、「TPAM 国際舞台芸術ミーティング in 横浜 2013」で発表された《Extra Curtain Call》は大規模な営みだった。同作は500人を目標にボランティア参加者をつのって上演する演劇作品であり、発表の場はKAAT神奈川芸術劇場ホールで客席1200もの大劇場である。その規模で「かちかち山」を上演したのだから、壮大なナンセンスな試みも甚だしい。
 このように、Nadegata の笑いは用意周到である。童話の演劇公演を行うために、照明や音響など舞台芸術のプロフェッショナルにわざわざ協力を仰いだことか──。つまり、作為性のないKOSUGE の笑いと比べ、Nadegataは笑いの種類や性質がまったく異なる。 なお、本文の冒頭でKOSUGEとNadegataの共通点のひとつは笑いであると筆者は述べ た。だが、この笑いという要素は共通点であると同時に、双方の相違点でもあると指摘できる。よって、笑いを軸に両者の作品を考察すると、KOSUGE とNadegata の類似と差異が 明らかとなる。
ここで双方のプロフィールにも触れておきたい。KOSUGE は2001年、Nadegata は2006 年 から活動を開始した。彼らはワークショップを実施する機会が多く、多くの人たちを巻き込んで作品を成り立たせてきた。このように、活動を始めた時期や制作スタイルにおいても、KOSUGE とNadegata の共通点が挙げられるだろう。
 急いで付け加えると、こうした彼らの活動が21 世紀の初頭に実現できたのは、時代の背景も大きい。少し遡ると、1990 年代の半ばあたりから、美術館などでアーティストによる ワークショップやレクチャーなどが積極的に開催されるようになった。今となっては、そうした傾向は美術の普及教育が重視されるようになったため生じたと説明されることが多い。そのことはもちろん間違いではない。だが、普及教育の充実の他に、もうひとつの理由も大きい。それは、出品謝礼に関してである。
 1990 年代の半ばくらいまで、現代アートの展覧会に参加するアーティストに謝礼が支払 われるケースは稀だった。担当学芸員が支払うつもりでいても、「前例がないから」との理由で内部で却下されたものだった。そこで、学芸員が着目したのがワークショップやレクチャーなどである。展覧会の関連企画としてこれらを実施し、その講師料という名目で謝礼を払う苦肉の策を生み出したのである。
 ついでながらさらに付け加えると、美術館などにおけるワークショップの趣向に変化が 訪れたのも、この頃からである。従来は、「シルクスクリーン講座」や「テンペラ画入門」とかいった技法を習得するタイプのワークショップが大半を占めたものだった。その 一方、90 年代を迎え、現代アートのアーティストたちがワークショップの講師として招かれるようになると、技法の習得よりも、参加者には主体的、自発的な姿勢が問われるようになった。つまり、「教える/教わる」といった主従関係は姿を潜め、アーティストと参加者がフラットな関係で一緒にプロジェクトを育んでいくようなスタイルが注目されるようになった。
 このように、90 年代半ばにアートとお金に関わる改革があった。ワークショップの趣向に変化も訪れた。これらのことが、21世紀に入ってKOSUGE やNadegata がワークショップ を繰り広げ、多くの人たちを巻き込む活動が実現できる土台となったといえる。したがって、KOSUGEやNadegata が活動を開始する以前の時代の動向に何が起きたのかを振り返ることによっても、彼らの表現がどう成立しえたのかを把握する手がかりとなるだろう。

『別にアートでなくていいじゃない』
戸舘正史(愛媛大学社会共創学部地域資源マネジメント学科 助教、松山ブンカ・ラボディレクター)

 イギリス在住のある現代音楽の作曲家から聞いた話だ。公的な支援を得て作曲した新作が大喝采を受けたり良い批評が出たりすると困るというのだ。なぜならそのことで「売れる作曲家」「商業的な作曲家」として認知されてしまい、次からは公的な支援を得られなくなる からだ。だから彼はわざと酷評してくれる批評家を新作初演に招くのだそうだ。嘘か誠か信じがたい話だが、かの国の事情が日本とはまるで異なることは間違いないだろう。万人に「ウケる」アートが求められ、そこには躊躇なく公金が落とされ、収益性の高いアートに補助金 が出される。それが日本の文化政策のトレンドになってしまった。渚のシンドバッドなヒットメーカー[1]が文化庁長官になるのもむべなるかなだ。現代美術の世界でも、参加型アートプロジェクトを手掛けるタイプのアーティストは、地域芸術祭等においては公共事業としてのアカウンタビリティのために飛び道具的に使われている(とは言い過ぎかもしれないけれど)。地域住民の参加を促すためには「ウケる」作りをしないといけない。 あるいは「ウケる」アートのふりをしないといけない。そんな日本特有の公益性あるいは公共性を担保しながら新しい視点や価値観を提示できるアーティストはそうそう多くない。しかしそこにKOSUGE1-16(以下KOSUGE)とNadegata Instant Party(以下ナデガタ)はこの十数年の間、果敢に挑んできた。偉いオトナにいい顔をしながら心中で舌を出してほくそ笑むような諧謔性を携えながら。
 この二組のアーティストと私は友人でもあるし、ともに仕事をしてきた仲間でもある。私自身もKOSUGE とナデガタの活動時期と重なるようにして「ウケない」アートが長いスパンで社会的価値となることを見定める仕事をしてきた(つもりだ)。長いスパンで見なくても、 今、ここで、「ウケない」アートが誰かを救うことがあるかもしれないし、何よりも「ウケない」アートが社会の中でちゃんと生きながらえていけるようにしておくことは、たくさんのそれぞれ異なる価値観が担保された社会には必要であるというのが私の立場だ。その目的のためにアートを使っていると言えなくもない。私にとってアートは「異なる価値観が担保 された社会」の状態を表す形容詞であり名詞であり動詞であるに過ぎないのかもしれない。 そんな私の視点から見ると、KOSUGE とナデガタの現場はいろいろな価値観が生成し共存する坩堝であって、垂涎の的だ。

 さて、私は現在、KOSUGE の土谷さんと目下プロジェクトを進行中なのであるが[2]、ナデガタのことがよく話題にのぼる。アイディアを練るブレストのときに「ナデガタみたい」という形容がでてきたりすることもある。そういえばアート関係者(演劇制作者とかアーティストとかキュレーターとか)と酒席を共にするときもナデガタのことが話題になることがままある。とにかく、みんながなんだか気になる存在としてナデガタがいる。正直言うと、ナデガタを話題にする人たちのナデガタに対する想いというのは、やや愛憎半ばするという感も無きにしもあらずで、愛はナデガタのメンバーひとりひとりの、まさに愛すべきキャラクターに対してであり、憎とは言い過ぎだけど、そちらの方はあえて言うなら ば、ナデガタが自分たちの作品をなかなか言語化しないことからくる誤解ゆえの「結局、 で!?」という苛立ちではないかと推察している。初期のナデガタが掲げていた「口実化し た目的で他人を巻き込む」というキャッチフレーズは言い得て妙ではあるけれど、現実社会において「口実化した目的で他人を巻き込むことは日常化している」(伊藤裕夫)[3]とも言えるわけで、アートとして消化するにはすんなり食道を通っていかないような異物感がある。 その未消化な感じは、ナデガタ自身もずっと抱えてきていることなのかもしれない。一方でナデガタと比較されることのあるKOSUGE の場合は消化されやすい気がする。一体その両者の違いとは何なんだろう。

 ナデガタとKOSUGEは、既存のシステムに対する疑義や批評的な眼差しが作品作り/プロジェクト作りの動機となっていると言うとすわりがよい(あるいはそう言われてきたし[4]、 そもそもコンテンポラリーの芸術表現において、そういう動機は別段珍しいことではない)。 しかし、そのターゲットとなる既存のシステムが何であるのかは、ナデガタとKOSUGEでは 微妙に(明らかにかもしれない)違うように思われる。ナデガタの場合、見据えているシステムとは、現代社会の構造の内にあるそれだけではなく、既存の美術表現やアートワールドに内在しているシステムである。美術のコンテクストの中で、どうやってパラダイムシフトに貢献できるのか、あるいは新たに価値を更新できるのか、という現代美術家としての戦略的意識が幾分強めだ。そしてその文脈でのすわりが悪いからアートウォッチャーの皆様方は消化しづらい。
 一方、KOSUGE は当たり前の常態を疑ったり読み替えたりするということに対してかなり意識的かつ自覚的である。土谷さんが自分のプロジェクトを語るときに用いる「ツッコミを入れる」という表現はまさにそういうことで、ツッコまれることでハッと気づかされたり潜在的な問題が顕在化されたりする。少々語弊のある表現だが、災厄が日常に潜んでいた課題を浮き彫りにするように、ポジティブな有事を作っていくという点においてはKOSUGEもナデガタも同じだ。しかしKOSUGEの場合は活動の原初体験として東京の葛飾区小菅のコミュ ニティでの“互助”体験がベースにあるので、土谷さんの言葉を借りるならば「持ちつ持たれつ」のシチュエーションを仮設するという目的が明確にある。あるいはその都度プロジェクトのテーマや問題意識を表明しているように思える(シャドウワークとか贈与経済とか)。 だからアートウォッチャーの皆様方は食べやすく消化しやすいのかもしれない。

 何年前になるだろうか、アーツ千代田3331 でナデガタが中村政人さんと藤浩志さんに対 して100の質問をするというイベントがあった。そこで印象的だったエピソードがある。質 問の内容は忘れてしまったが、藤さんの何気ない応答を私は鮮明に覚えているのだ。
 「別にアートでなくていいじゃない」。
 プロジェクト型の形にならない作品をどうやって美術史のなかで位置づけ(価値づけ)残していくのか、作品として残していくのか、そんな話の流れのなかでナデガタに対して発せ られた言葉だった。アーカイブをどのように残していくか、現象をどのようにパッケージしていくのかという問題意識はナデガタが一貫して持ち続けているもので、それは同時にプロセスを可視化していくという彼らの作品のあり方にかかわる問題でもある。ナデガタにとっ てアーカイブとはプロジェクト事後の問題ではなく、作品そのものなのだ。それはナデガタにとって美術の文脈で価値づけられ評価されるためには切実な問題であるのだろう。しかし藤さんの言葉は、美術史や美術制度のような限定的な文脈ではなく、もっと大きな文脈、世界や社会の構造の中でオルタナティブな視点を提示できればそれでいいじゃん、それがアートの仕事なんじゃないの?ということを言いたかったのだと思う。そういう大きな文脈で爪痕を残せば自ずと美術の文脈にも位置付けられるだろうよ、ということでもあるはずだ。
 先日、開催されたシンポジウム[5]に登壇したKOSUGE の土谷さんとナデガタの野田さんの間 で、プロジェクト型作品をどのように美術館のコレクションにしていくのかという議論があ った。野田さんからの、東京都現代美術館での展覧会[6]に出品した《カントリー・ロード・ショー》がコレクションされたときの苦労話が議論の口火だった。この作品は、団塊世代を集めて、彼、彼女らの人生についてヒアリングし、それらを素材にしてカリカチュア化したか のような映像作品と、団塊世代が歌う合唱の映像によって構成されるインスタレーションだ。 団塊世代の個人史を通して戦後日本を概観するかのような作りとなっている。このインスタレーションで使われた段ボールで装飾を施したヘルメットが美術館の収蔵委員会でコレクションとして認められなかったという話を野田さんはした。一方でこの話を受けて土谷さんは、金沢21 世紀美術館でサッカーボードゲーム[7]がコレクション化されたときの話をした。 金沢ではコレクションの対象となる作品は巨大なサッカーボードそのものではなかった。このプログラムに子どもたちが参加するためのさまざまなプロセス(収蔵庫からボードを運び出す、組み立てる、ゲームボードに装飾する看板の広告をとってくる等など)を指示書にしたため、そのプロセスへの関わり方を作品として収蔵したのだ。 
 
 このシンポジウムにおけるエピソードは美術館側の収蔵作品に対する考え方の違いが露わになったこと以上に、ナデガタ(このシンポジウムでは野田さんだけが登壇)と KOSUGE の作品あるいはアートそのものに対する意識の違いが明らかになったことが興味深い。つまり野田さんの主張は、ヘルメットに美術作品としての物質的な価値を認めてほしいということを意味していたわけでは決してないけれど、作品の非物質的な価値を表象する物質的なシンボルへの希求であり言及であった。このナデガタの作品の場合、特定の団塊世代の人たちを素材にした作品であり、完成した作品には不変の永遠性がないといけなかった。 なぜなら美術館での展覧会のための作品であり、コレクションされるならば尚更そうでなければならないからだ。美術館という制度の作法に逆らわずに、どうやってインストールできるか考えた末の作品であるから当然の帰結だが、もしかしたらこの方法とは違うホワイトキューブへの介入の仕方はあったかもしれない(すなわち不変の永遠性を選択しなというアプローチだ)。
 一方でKOSUGE のサッカーゲームのケースは、ゲームを実施するまでの子供たちの関わりや出来事を誘発するシステムをコレクションにするという、美術館の標準的な作品収蔵の考 え方から外れた提案に挑んだ[8]。ゲームボード自体はKOSUGEの手からなる物質的な造形物である。レディ・メイドでもなくナデガタのヘルメットのときのような障壁はなかったはずだが、土谷さんはゲームボードを作品としては認めず物理的に収蔵されることを拒否したわけ だ。KOSUGE がこの方法を選択できたのは、サッカーゲームに参加する子どもたちは任意であって、すなわち特定の誰かでなくても(不特定の誰かだからこそ)成立する作品であるか らだ。そもそも作品を成立させる参加者は流動的で固定化されていないからこそ、作品を表象するような不変性を孕んだシンボルはここでは不要であった。インストラクション・アー トと言えばそうなのかもしれないが、この作品でも「持ちつ持たれつ」が大切な要素であるとしたら、個に帰する作家性は余計なものだ。KOSUGE には《どんどこ!巨大紙相撲》という「ウケる」プロジェクトがあるが(KOSUGE 自身の分類だとワークショップ)、商業的なイベントとして依頼がある場合は断っているという話を土谷さんから聞いたことがある。何かしらの搾取の経済が内包している設えの中では「持ちつ持たれつ」は成立しないということなのだろう。このあたりにKOSUGE のアートに拘泥しない姿勢がうかがえる。 いずれにしても、ナデガタもKOSUGE も両者の作品にはいろいろなパターンがあり、この 二つの事例に代表されるわけではない。しかしこのシンポジウムで提出された事例と二人が語った論点に限って判断すれば、既存のシステムへの挑み方の両者の違いは明らかであった と言わねばならないだろう。

 さて、私自身のナデガタやKOSUGEへの興味は美術の文脈における評価や価値づけというところからは実はだいぶ離れている。両者が論じられる美術の文脈というものがあるのだと したら、アートプロジェクト(あるいは地域アート?)というカテゴリーの中でナデガタとKOSUGEは扱われる。公金の入った芸術祭等の枠組みの中での依頼が多い彼らの仕事は色眼鏡で見られがちだ。だいたいナデガタもKOSUGEも良識の人たちである。日本型地域アートプロジェクトの掟は、人にやさしく、地域にやさしく、政治には触れず、街中で裸になったりしないし火遊びもしない、安心安全なアート。当然、良識のあるアーティストでなければ仕事はオファーされない。しかし、ナデガタとKOSUGE が毒にも薬にもならない良識派ではないことは確かだ。なぜなら両者に共通しているのは不確定要素の担保で、計画通りを欲する行政がいちばん嫌いなやつだからだ。
 不確定であるということは不安定であるということで、道筋も到達点も定まっていないということだ。既に20 年も前に川俣正さんが指摘しているように、地域アートプロジェクト というものが計画的かつサイトスペシフィックに機能してしまっていることで、参加する市民もコンセプトや振舞い方を了解し予定調和に終始してしまっている[9]。 例えば、プロジェ クトを通して共有されている土地の文脈を再確認することによって、地域という共同体を補強するような予定調和が生まれる。そういう安心安全なアートプロジェクトが方法論化されて定着したからこそ、現在もなお続く地域アートの隆盛があるに違いない。その点、実はナデガタもKOSUGEもローカルなサイトスペシフィックに拠ったところがあるわけだが、その場や環境が持つ特有の歴史、文化のような最大公約数的な価値観を共有することはあまりしない。その土地、あるいは社会と言ってもよいかもしれないが、そこにある最大公約数的な価値観とは、公共性と言い換えてよいかもしれない。少なくとも行政が公共性と言うときはそれだ。もし、わたしがナデガタとKOSUGE のやっていることは何か?と問われたならば、 公共性のオルタナティブを作っていると答える。それは、たくさんの人のニーズを代弁する公共性ではなく、たったひとりであっても大切にしていること、ひとりぼっちの存在の内にある公共性のことだ。「ウケる」アートのふりをしながら実は「ウケない」アートであるナデガタとKOSUGEの面目躍如といったところだろう。
 KOSUGE が《KOSUGE スケートスクール》でしたことはスケートのできない大人に対して、 子どもが滑り方を教えるという価値の逆転だった。スケートが上手くない子どもでもこれまでとは違う光が当たる。《どんどこ!巨大紙相撲》では飽きてしまって遊んでいる子どもたちがいても、その遊びに何か“名づけ”をして役割を作ってしまう。ナデガタは《24 OUR TELEVISION》でダンスの好きな気弱な若者をフィーチャーする。自己肯定感低めの若者は指マラソン(ランナーに見立てた指をひたすら動かす映像)で完走して達成感で涙する。 《Instant Scramble Gypsy》では受験勉強を放棄している中学生たちの居場所を作る。みんなちょっと中心から外れているけれど、ナデガタは中心と周縁を綯交ぜにし てしまう。
 マジョリティに順応しなくても、ひとりひとりの大切な個に対して大切に向き合うとい うことをナデガタもKOSUGE もする。不確定と出会うためにKOSUGE は、遊具や操り人形など 物理的装置を作る。ゴキブリホイホイのように人が集うための装置をそこに置く。一方ナデガタは、ニーズを拾うために無節操な広告代理店のように大きな網をかけることはしないけれど、ちょっと狡猾な広告代理店のような募り方で市民のボランタリー精神をくすぐって、 居場所を欲している人を集めて共同体をつくる。両者ともに良識の人たちであるけれどちょ っと悪い。
 ナデガタもKOSUGE も、いつも不確定と出会うためにプロジェクトを設えているように見える。つまり、何かが新たに生成されることにアートの価値を見出している。しかし、ナデガタとKOSUGE のアートの位置づけ方は違う。ナデガタのアートは、生成が起こる状況や構 造を作るという目的のなかに意識化されている。一方、KOSUGE のアートは、生成が起こるまでの状況や構造を作るための手段である。KOSUGE がぬるりとアートを手段として社会のありように少しだけ介入しようとしていて、ナデガタは社会のありように少しだけ介入しながらアートであることを目指す。もうそれはラーメン風そうめんかそうめん風ラーメンかの違いに過ぎないかもしれない。なぜなら、KOSUGEもナデガタもマジョリティの支配する歪んだ公共性を揺さぶっているのだから。まあ、だから、いずれにしても、美味しければよいので、アートであるかどうかは、どっちでもいいんじゃない? 

1. 都倉俊一:作曲家、第23代文化庁長官。ピンクレディー、山口百恵などに多くの歌手に楽曲を提供、「渚のシンドバッド」などヒット曲多数。
2. 松山ブンカ・ラボ《知らんことだらけ博物館》プロジェクト
3. 『Instant Scramble Gypsyができるまで2009-2010』(Nadegata Instant Party+中西要介+戸舘正史、月見の里学遊館、2011年)49頁「口実化した目的のために他人を巻き込むようなことは今日ではあまりにも日常化している」(伊藤裕夫)
4. 同上52頁 「ナデガタが本質的に探究していることは、現代社会やアートのシステム(構造)に孕まれる問題を抽出し、それに対して疑問を投げ掛けること」(服部浩之)
5. 《まちが文化芸術をつくるⅡ》松山ブンカラボ主催オンラインシンポジウム(2021年3月13日)
6. 《カントリー・ロード・ショー》(東京都現代美術館 MOTアニュアル2012《風が吹けば桶屋が儲かる》)
7. 巨大サッカーボードゲーム《AC-21》(金沢アートプラットホーム2008)
8. 金沢21世紀美術館では2007年に日比野克彦《明後日朝顔プロジェクト21》のコンセプトや運用方法等をコレクションにした先例がある。
9. 『セルフ・エデュケーション時代』(川俣正+ニコラス・ぺーリー+熊倉敬聡、フィルムアート社、2001年)70頁「〈保証なきマイノリティ〉とセルフ・エデュケーション」

『コスゲとナデガタ』
吉田有里(アートコーディネーター/MAT, Nagoya プログラムディレクター、名古屋芸術大学芸術学部美術領域准教授)

 筆者は、あいちトリエンナーレ2010、2013 のまちなか会場である長者町担当のアシスタントキュレーターとして、KOSUGE1-16とNadegata Instant Party(中﨑透+山城大督+野田智子)に新作を依頼し、制作のプロセスに併走した立場から、ここではKOSUGE1-16《長者町山車プロジェクト》(2009-2010 年)、Nadegata Instant Party《STUDIO TUBE》(2013 年) の2つの作品を取り上げ、その制作の過程を振り返りその作品と手法について考察していきたい。

長者町プロジェクトのはじまり

 あいちトリエンナーレは2010 年からスタートした国際芸術祭で、名古屋の中心市街地に ある愛知芸術文化センターと名古屋市美術館をメイン会場に、その中間点を結ぶまちなか会 場として長者町エリアが会場が選出された。2010 年は「都市と祝祭」をテーマに愛知県で 初めて開催する芸術祭ということもあり、まちなかの公共空間や空き家などを会場にアーテ ィストが介入しながら、作品を展開する計画であった。 筆者が着任したのは2009 年の春。土地勘のない名古屋での初めての仕事は、建畠晢芸術監督と長者町織物協同組合の会合に出向き、あいちトリエンナーレについて挨拶まわりをすることだった。出展作家の蔡國強や草間彌生の作品画像に長者町の重鎮たちは驚き「提供する会場で火薬を爆発されては困る。」、「水玉にペイントされたら困る」というような意見も上がっていた。世間のアーティストイメージが「芸術は爆発だ!」と名言を残した岡本太郎から更新されていないという事実を受け止め、まずは開催前年に協力者に現代アートに触れる機会を設けること、まちなか会場での運用の検証、ボランティアの参加などを理由にプレ イベントを実施することとなった。

 長者町は江戸時代に商人の町として繁栄したのち、大空襲を経て、問屋街として発展した エリアである。バブル以降、ファストファッションなどに代表される産業の変容によって問屋が衰退し、空きビルや駐車場が増加。人口も減少し、2000 年以降、地域とNPO が中心となりまちづくりの団体が発足される。
 地域の調査をしていく中で、ひとつのエピソードに出会う。長者町は第二次世界大戦時の 大空襲によって甚大な被害を受けたことで、まちに代々伝わる地域の祭文化がない。2001 年 から毎年、青年会が中心となり商売繁栄を祈願した「長者町ゑびす祭り」を実施しているが、 祭を盛り上げるために神輿も担ぎ手も他所から借りてきているという。青年会のメンバーは問屋業の2〜3代目で、「子どもの頃から神輿を担いだ記憶がない」という話を聞いた。両親ともに江戸っ子で下町育ちの筆者には、祭のあり方に違和感を覚えた。
 当時、KOSUGE1-16(以下、コスゲ)の活動地であった墨田や葛飾エリアでは、コスゲのコンセプトになっている「持ちつ持たれつ」がコミュニティの中に存在し、それらの場所で展開されたいくつかの初期作品を筆者は学生の頃から参加、体験してきた。美術館やギャラリーといった「美術のため」ではない空間に立ち入り、町家の中に自転車が往来可能なバリアフリーの通路を作る《自転車の為の抜け道の為のバリアフリー》(2002 年)、狭小住宅の内部にスケートパークを出現させる《ISEKIT-PARK》(2002 年)など、生活環境に近い場所を突如として「遊び」の場に変換させる作品群は、文字通りの遊戯を取り入れるユーモラスな手法を持ちながら、混沌と密集した東京の都市空間に対する余剰やゆとりを提示する批評的な側面も持ち合わせていた。

《やわらかい山車》と《かたい山車》

「都市の祝祭」というテーマが掲げられた都市型芸術祭に、この場所性を読み解き、最大 限の「遊び」をつくりだすKOSUGE1-16 に参加依頼し、この町の神輿事情について伝えたところ、まちと協同して長者町のオリジナルの山車を制作するというプランが提案された。 インタビューやリサーチを進めていく過程で、愛知県には犬山市や半田市などに代表される 江戸時代から続く山車の存在があること、からくり、浄瑠璃、衣装、御囃子などの山車の周縁の文化や技術も伝統として受け継がれていること、空襲で消失してしまった長者町の山車には、二福神が鎮座していたことなどの山車にまつわるさまざまなエピソードを拾い上げていった。

 プレイベント「長者町プロジェクト2009」では、繊維問屋の反物、組紐、綿などの不要となった製品の提供を受け、《やわらかい山車》として、子供山車を制作した。スタジオ兼展示室となる会場の旧・繊維問屋は、長者町通りに面した建物の構造上、コスゲの土谷享と車田智志乃が作業する様子が、道行く人たちの目に触れる。黙々と作業していく傍らで、当時まだ幼かった2 人の長男が遊んでいると、長者町らしい「まいど!」という挨拶が行き交い、 まちの人たちが話しかけてくる。日毎に差し入れの数も増えていった。
 やわらかい山車の制作には、芸大生、福祉を学ぶ学生、主婦などのボランティアが参加した。半田の郷土資料館で山車の歴史を記録した「山車帳」に出会った土谷は、それをヒントに山車にまつわるプロセスを記録することをアートプロジェクトを研究する学生に任命した。「長者町ゑびす祭り」では、まちの数少ない子どもたちとそこに居合わせた子どもたちが一緒になって、山車を曳き、周りにそれを見守る大人たちが集まってきている。制作から発表までのプロセスを公開することで、このまちに関わる人たちのアーティストイメージを日々上書きしていくような感触があった事を記憶している。

 トリエンナーレに向けて《かたい山車》の準備がスタートした。かつて長者町に存在した山車の調査を進めながら、実制作は地元の芸術大学を卒業したばかりのインストーラーであるミラクルファクトリーがマケットやテストを繰り返しながら、作業を進めていく。山車に乗るからくりは、長者町の武勇伝を拾い集めた。戦後すぐに、丁稚奉公として働く「早川さん」が、長者町一の速さで荷物を運ぶ「伝説の自転車漕ぎ」として登場するストーリーが採用された。山車には自転車が搭載され、その自転車とからくりが連動する。繊維街のアーケード看板を潜るように伸縮しながら走行する機構や、道路のサイズを検証して計算されたまちのスケールの山車が完成した。オリジナルで作曲した出囃子を、山車に乗った楽団がサックスやアコーディオンで奏でる。「山車」にまつわる周縁の要素も含め、現代版にアレンジしたこの《かたい山車》は、まちに関わる様々な世代を取り込んでいった。

アートと公共物

 ここまで全てが思い描くように事が運んだ訳ではない。制作場所の確保や、制作面でのトライ&エラー、試走の失敗で祭の走行が危ぶまれるなど、緊張が起こる場面が幾度もあった。 実際には様々な知恵を寄せ集め、土谷がバラバラな意見を持っていたまちの衆に発破を掛けたりしながら、なんとか無事に計画通りに山車が運行し「長者町ゑびす祭り」のフィナーレを飾ることになった。その後、アーティストから手を離れ、まちに引き取られた山車は10 年間、まちの人たちが自主的に守り続けている。お金も、場所も、手間もかかる山車は、土谷曰く「まちに負荷をかける、めんどくさい存在」である。それらを受け止める力量がまちにあるのか?というアーティストから投げかけられた問いは、再開発の過渡期を迎えている長者町の人たちがこれからも応え続けてくれるだろう。
 作品がアーティストの手を離れ、美術館のコレクションとしてではなく、特定のエリア の公共物として存在し続けることは「美術」という枠組みに捉われず、私的な場所をパブリ ックな場所へと変換してきたコスゲのアクションの集積ではないだろうか。 2021 年、新型コロナウイルスの影響によって「長者町ゑびす祭り」は中止が続いているが、 また近い日に、ここに関わり続ける多くの人たちと山車を囲んで再会できる日を楽しみにし ている。

Nadegata Instant Party(中﨑透+山城大督+野田智子)「口実」のつくり方

 多くの来場者数を記録したあいちトリエンナーレ2010 の終了後、芸術祭に関わった長者町の協力者、多くのサポーター、ボランティアなどから、次回の開催に向けて期待を寄せる声が数多く届いていた。2011 年の東日本大震災後に開催される芸術祭として、五十嵐太郎 芸術監督は「揺れる大地ーわれわれはどこに立ってるのか:場所、記憶、そして復活」とい うテーマが掲げた。

 Nadegata Instant Party(中﨑透+山城大督+野田智子)(以下、ナデガタ)は、これまで地域や場所と深く関わり、架空の物語を「口実」として立ち上げ、多くの人を巻込みながら作品を制作してきた。かつての洋裁学校であった木造建築を公民館に転換する《Instant Scramble Gypsy》(2010 年、静岡県袋井市)や、旧保育園を陶芸窯に変換する《ONE CUP STORY》 (2012 年、新潟市)などに代表されるように、建物としての機能や用途を終えた場所に捏造した歴史や記憶を捏ち上げ、その場所が脈々と続いてきたかのようなストーリーを展開する。
 それらの内部には、中崎透が即席で制作したベニヤに描いた看板、角材でできた構造体など即席なつくりの平面や立体が空間を覆う。展示を構成するもう一つの重要な要素として、 山城大督の得意とする映像である。これらの映像は、鑑賞者の多くが見慣れているであろうテレビ番組や映画の様式を参照しながらも、こちらも即席に撮影された映像が、インスタレーションの一部として挿入される。映像に登場するのは、この架空の物語に参加した一般人やナデガタ自身、また紙人形であったりと独自の可笑しみと緩さがある。

 絵画を学んだ中崎と映像メディアを学んだ山城の2 人のアーティストが技術を持ち寄り、 相乗効果によってその架空の物語を拡張していく。そこには、多くの人たちが関わり、巻き込み、巻き込まれて現実化させていくプロセスで、人と人を繋ぎ、現場にで起こる様々な摩擦を調整し、交渉、許可取りなどの膨大な業務を引き受けるアートマネージャーの野田智子の存在も欠かせない。この職能の違う3 人のコレクティブによるナデガタは、各地で数々の 「口実」によって「現実」が変化するその過程をストーリー化し作品を展開してきた。

 長者町では、電力開閉所施設がその役目を終えて、更地になるのを待っていた。非常時に官庁社や病院、新聞社などに送電するため役割を担っていた施設は、電力会社の職員以外は立ち入ることのなかった建物である。この建物を展示会場にと計画していたところに、難題にぶつかる。これまで特定の人の立ち入りしかなかった建物に、鑑賞者などの不特定多数の人が出入りする場合は建築法で用途変更が必要だということがわかる。法規では、100 ㎡以下の使用であれば、その限りではないのだが、2 フロア合わせて1000 ㎡以上の巨大な建物のうち、一部のみを使用するという条件のもと、展示計画を立てなければならなかった。このような難解な条件をクリアし、長者町の場所性、多くの人たちと関わりながら作品を制作することができるアーティストとして、筆者が作品を見続けていたナデガタに出展依頼をしたところ、ナデガタから建築的条件をユーモアに変換するようなプランが立ち上がってきた。

STUDIO TUBE

 電力開閉所跡地を舞台に、かつて中部地方の映画産業を支え、惜しまれつつもその役目を終えようとしている架空の特殊撮影スタジオ[STUDIO TUBE]を設定し、最終作とされる映画の撮影現場の追体験をつくり出すというもの。建物内外にチューブのように通路をつくり、 来場者を回遊させる。建物スケールを活かしながらも、通路の面積が100 ㎡になるという条 件をクリアし、アトラクションのような高揚感をつくった。
 制作の手法として、まずは説明会を開き、STUDIO TUBE に参加するメンバーを”スタジオクルー”と名付けて募った。「第一条件は、とにかく時間のある人たち!」世代も目的もバラバラな、バラエティー豊かなメンバーが集い始めた。シナリオ、セット、衣装、役者まで、 映画を構成するすべてのパーツをスタジオクルーが拙い技術や見よう見まねで手作りし、演じる。ある日は、長者町通りを占有して、100 名以上のエキストラとともに特撮怪獣から逃げ回るシーンの撮影も行われた。B級映画のパロディーのような展開や、くだらない設定に多くの人を巻き込みながら、撮影所跡地に8 つの映像作品が完成した。鑑賞者はそれらを回遊しながら、このプロジェクトのプロセスも辿って行くことになる。ユーモアや馬鹿馬鹿しさを絡いながらも、60 年〜80 年代にかけて全盛期を迎えていた特撮映画スタジオのイメー ジが、その同時代を駆け抜けた繊維問屋街の時代の移り変わりについても示唆するような展開に加え、電力施設という場所性は電気や原子力の問題を直接的に表出させずとも、福島原発事故を経験した鑑賞者たちに向けて、現代における都市空間の再生とエネルギー供給などの実社会が抱える様々な問題を問いかける構造となっていた。

 電力開閉所跡地はトリエンナーレ終了後、程なく取り壊されて、駐車場になり「STUDIO TUBE」は姿を消した。しかしスタジオクルーたちは「ムービーの輪」というサークル活動を継続し、その後のトリエンナーレでも、オーディエンスやボランティアとして活躍している。 近隣の美術館やイベント会場、ギャラリーなどでスタジオクルーと出会す機会も少なくない。 架空の物語に参加した体験は思い出となって収束されるのではなく、その後も各々に伝播して地域の文化に関わり、支える行動へと変容し広がる。

 プロジェクトタイプの作品は、制作の環境やそのプロセスに力点が置かれ、作品としての 批評を論じる事が難しいとされてきた。制作過程〜発表〜その後を一つの時間軸で見届けるには時間を要するからだろう。またその多層的な要素を含む作品は、アートの言説や枠組の中だけで評価する事が困難でもある。
 10 年という時間を経て、筆者が思い浮かべるのは、長者町にとってコスゲとナデガタは 神話に登場するトリックスターのような存在だったのではないかと考える。機知に富み、悪 ふざけをしながら、作品によって混沌とした場をガラリと転換させる。多くの人たちを巻き込み、そこにいる人たちにはっぱをかけ、夢物語を見せる過程で、意図せずとも相反するもの同士を緩やかにつなぎとめ、誰もが参加できる居場所を作り出した。可視化されない副次的効果を、まちに、人に、記憶に、残していたのである。 

『《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》の比較 ―文化政策的意義と美学への応答』
吉田隆之(大阪市立大学大学院都市経営研究科准教授)

序.唐突な依頼
 2021 年6月中旬、あいちトリエンナーレ2010 で一緒に仕事をしたアートマネージャーの 芦部玲奈さんから、やや唐突なメールが来た。それは、乗鞍高原温泉でのワーケーションを決め、特急しなの号で松本に向かう車中だった。芦部さんがメンバーである「旅するリサーチ・ラボラトリー」で、KOSUGE1-16とNadegata Instant Partyの制作活動に関するリサー チを進めていて、彼らの活動を比較してほしいという。戸惑いながらも、約10年前の自身 の記憶が走馬灯のように巡った。
 筆者は、あいちトリエンナーレ2010で、県職員として繊維問屋街の長者町地区を担当し、 KOSUGE1-16 の制作活動に関わった。あいちトリエンナーレ2013 では、市民ボランティアの 1 人としてNadegata Instant Partyの制作活動をサポートした。それまで現代アートと無縁だった吉田にとって、KOSUGE1-16とNadegata Instant Partyのプロジェクトが現代アートの入り口だった。こうしたプロジェクトが、世界の芸術祭、ましてや現代アートのスタンダードでないことを知ったのは、しばらくたってからだ。芦部さんとのその後のやりとりでは、「長者町での仕事がKOSUGE1-16 とNadegata Instant Partyのターニングポイントになっているのでは」とも記されていた。

1.はじめに
 《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》の両者の比較の前に、KOSUGE1-16 と Nadegata Instant Party のそれぞれについて、簡単に紹介しておこう。
 KOSUGE1-16 は、車田智志乃(1977 年福島県生)、土谷享(1977 年埼玉県生)の2 人組のア ーティストユニットである。2001 年より活動を開始し、「日常のありふれた環境や、現象、人のつながりを作品制作のきっかけに、作品を介在させることで鑑賞者を参加者として変質させ、参加者同士、あるいは作品と参加者の間に『もちつもたれつ』という関係性を構築している」(あいちトリエンナーレ2010実行委員会,2010)。
 一方、Nadegata Instant Party は、美術家の中﨑透(1976年茨木県生)、山城大督(1983 年大阪生)とアートマネージャーの野田智子(1983 年岐阜県生)の3 名で構成されるアー ティストユニットである。2006 年12月に結成された。各地で様々な人々にコミットし、参加者を巻き込みながらイベントやインスタレーションを展開。その場所・状況に最適な「口実」を創り上げ、それを実現していく中で「口実」が「現実」に変わっていくプロセスをストーリー化してきた。
 さて、2010 年頃、「アートが地域を変えるのか」「アートによって市民活動が起きるのか」 が、社会や研究者の関心を呼んでいた。長者町では、当該2 つのプロジェクトを軸としながら、芸術祭により市民活動が起き、地域が変わっていくさまを眼前にした。吉田は、博士論文『都市型芸術祭の経営政策―あいちトリエンナーレを事例に―』(吉田,2013)で、この 2 つのプロジェクトの具体的プロセスに着目しながら、アートによる長者町での地域づくりの成果を、ソーシャルキャピタル論[1]の視点から、つぶさに観察し分析した。
 一方で、アートプロジェクトは、そのプロセスが往々にして形に残らないことから、美学・ 美術史的批評がなされていない現状がある。この点について、中村史子(愛知県美術館学芸 員)は、論稿「アート、地域、プロジェクトそれを評するのは誰か」(中村,2016)で、アートプロジェクトに対して「日本で美術の専門的知見を備えた言説があまり存在していない」 理由を、次のように指摘している。
 1 つには、プロジェクトごとに組織が離合集散し、「十分な資料にアクセスできない」などの「そのプロジェクトを運営する主催者側の事情」、2 つには、不特定多数の人々が関わることによる「作品の質に関する責任主体の曖昧さ」、3 つには、すべてのプロセスにアクセスできないことによる「作品を完全に理解することの難しさ」である。
 ちなみに、Nadegata Instant Partyの《STUDIO TUBE》については、中村が、2016 年2 月 11 日、自身が勤める美術館のリレートークで、「地域で関係性を美学する」と題して、美学・ 美術史的批評を試みた(中村,2016)。しかしながら、現在もまだKOSUGE1-16 とNadegata Instant Party の美的・美術史的批評は十分でない。裏を返せば、両者は、もっと批評・評価されてよいのではなかろうか。 改めて、文化政策研究者として振り返れば、2 つのプロジェクトは、都市型芸術祭において、両者が相まって地域に明確なインパクトを与えた稀有な例だったように考える。
 本稿では、2 つのプロジェクトを間近に見た1 人として、両者のプロジェクトをつぶさに 紹介し、比較をしたうえで、地域アートの文脈での文化政策的な意義を再確認する。そのう えで、ささやかではあるが、美的批評・美的評価への応答を試みたい[2]。これまで決して十分でとはいえなかった文化政策、とくにアートプロジェクト論と美学の議論の橋渡しを企図した点に学術的・社会的意義がある。

2.吉田とあいちトリエンナーレの関わり
 両プロジェクトの比較の前に、吉田のあいちトリエンナーレの関わりを紹介しておきたい。 2009 年3月末、愛知県がんセンター中央病院で経理を担当していたところ、国際芸術祭推進室への異動の辞令があった。それまで美術は無論、現代アートには全く無縁だった。とはいえ、前触れがまったくなかったわけではない。いろいろあって、30 代半ばに県職員として採用された。現場が遠く、かつ、ルーティンの仕事にすぐ辟易した。過疎地の県立高校分校に、学校事務として赴任した際に、廃校の話が起きた。地元の保護者らと廃校反対運動に加わり、人事課に目をつけられたこともあった。仕事にやりがいを見いだせなかったことから、演劇に生きがいを見出そうと、市民劇団の扉をたたいた。そんな自分を「演劇をやる県職員は珍しい」と推してくれた職場の先輩がいた。あいちトリエンナーレは、県知事の肝いり事業だ。コースを外れた吉田が推進室の職につくのは、異例の抜擢だった。水を得た魚となって、生まれて初めて本気で仕事をした。
 吉田が担当したのが、まちなか展開だった。建畠晢芸術監督の意向もあり、長者町が会場に決まる。何もかもが初めての経験で右も左もわからない。あいちトリエンナーレ2010 キュレーターを務めた拝戸雅彦愛知県美術館学芸員に、「いろいろと教えてください」と乞うた。しかし、「俺もやったことがないから、わからない」という。同じく長者町のキュレーションを担当したのが、建畠監督の教え子で、横浜のBANKART1929 でのまちなかプロジェク トなどで経験を積んだ吉田有里である。あいちトリエンナーレ2010 アシスタント・キュレ ーターとなった彼女の存在が、道しるべだった。
 こうして吉田は2009 年、2010 年の2 年間、愛知県職員として長者町地区を担当した。

3.《長者町山車プロジェクト》
 2009年にプレイベント[3]で、2010 年あいちトリエンナーレ2010 で、アーティストユニットKOSUGE1-16(車田智志乃・土谷亨)に出会った。
 《山車プロジェクト》の概要を紹介しよう。
 彼らは、名古屋長者町織物協同組合の2 代目長老たちに、地域の歴史についてインタビュ ーし、戦争で焼失した山車に替えて、アート山車を制作する。KOSUGE1-16 の真骨頂は、山車を作るだけでなく、まちの人が曳くことを企てたことだ。しかし、ことは簡単ではない。長者町からは、事故の危険があることから、曳き手を余所から雇う提案がある。これに対して、 KOSUGE1-16 は、「長者町の人が山車を曳くことで、長者町の人が力をあわせる。それこそが作品の意図だ」と譲らない。
 その企図を、2011 年以降山車の練り歩きを継続するにあたり、その基金を集めるちらしのなかで、土谷は、次のように記す(土谷,2011)。

(中略)“つくる”“みる”という関係に“ささえる”という軸を立てた。それは日本という地域が近代化の過程で置き去りにし、置き去りにされてしまった事自体も忘れてしまった“ささえる”という軸である。つくる事にもつくった後にも支えが必要、 そんな面倒なアートを目指したのが、この「長者町山車プロジェクト」である。(中略)「長い年月をかけて新陳代謝を繰り返していくと、やがて山車が人々を支える逆転が おこるのではないか」。実はこの妄想が現実になった時にはじめて、山車と町の‟もちつもたれつ”が成立し、同時にアートとしての自立を成し遂げると予想している。補足すると、山車がアートなのではなく、人々と山車の関係性そのものがアートなのである。

「人々と山車の関係性がアートである」と土谷が喝破しているのを見ると、ニコラ・ブリオーが、『関係性の美学』(Presses du réel,1998)で記述したリレーショナル・アートの傾向がみられる。KOSUGE1-16 が、「参加者同士、あるいは作品と参加者の間に」構築する「『もちつもたれつ』という関係性」(あいちトリエンナーレ2010 実行委員会,2010)は、作品の内容や形式よりも「関係(relation)性」を重視するリレーショナル・アートと符合するものである[4]。

 KOSUGE1-16 は、まちづくりの核となっ ていた若手経営者と話し合いを重ねる。彼らの企図がこれまでのまちづくりの経験からも長者町にとって必要だと感じられたこともあるだろう。若手らは山車の曳き手を自ら担うことを受け入れた。
 2010 年9 月5 日、長者町通の一部を通行止めにし、山車の試運転を行う。しかし、 2tもある山車を素人集団が操るのは容易ではない。まっすぐ進もうとしても、力を均等にかけなければ方向がずれてしま う。いわんや、曲がり角での方向転換は息が乱れ、何度やっても動かない。上手くいかなければいかないほど、個々の曳き手が勝手なことを言い出し、益々まとまらない。社長の集まりであることが災いした。まさに「船頭多くして船山に登る」である。滑ればよいとばかりに路面にござや竹をまき散らしたことがそもそも間違 っていた。やっとのことで山車が動いても、そのござや竹に足を救われ、曳き手が山車に巻き込まれそうになる。いつ事故が起きてもおかしくない状況だった(写真1)。

写真1《長者町プロジェクト:かたい山車》の試運転(2010)、長者町通 撮影:児玉美香
写真1《長者町プロジェクト:かたい山車》の試運転(2010)、長者町通 撮影:児玉美香

 長老の一人、吉田俊雄(長者町ゑびす祭り実行委員会テナント渉外部長、吉田商事株式会社代表取締役会長:当時)は、山車の試運転を見て気が収まらない。翌朝、筆者の携帯電話が鳴った。「長者町ゑびす祭り」での練り歩きを計画していたのだが、山車がテナントに突っ込んだり、買い物客と接触して事故を起こしたりすることを危惧し、人通りが多い長者町通での山車の練り歩きの中止を求めた。それでもKOSUGE1-16 も含めた話し合いが 行われ、「安全を確保できるほどの練習の成果が確認できたら」という条件付きで決着した。
 山車の曳き手たちは、仕事を終えてから数回にわたり練習を行う。試運転で生じた長老の事故に対する不安を解消すべく、京都の祇園祭の山車の辻回しを研究した。そうすると、息さえ合えば、少人数でも山車を動かせることが分かった(写真2)。

写真2 《長者町プロジェクト:かたい山車》の辻回しの練習(2010)、旧モリリン名古屋支店ビル荷さばき場 <br />
撮影:児玉美香
写真2 《長者町プロジェクト:かたい山車》の辻回しの練習(2010)、旧モリリン名古屋支店ビル荷さばき場 
撮影:児玉美香

 長者町ゑびす祭り当日、例年どおり2 日間で約10万人の人出となった。そうしたなか、事 故を起こすこともなく、辻回しの技量も上達し、まさに観客を魅せる腕前となっていた(写真3)。

写真3 長者町ゑびす祭りで曳かれるKOSUGE1-16の《長者町プロジェクト:かたい山車》(2010)、長者町通 <br />
撮影:石田亮介
写真3 長者町ゑびす祭りで曳かれるKOSUGE1-16の《長者町プロジェクト:かたい山車》(2010)、長者町通
撮影:石田亮介

 山車の練り歩きは多くの観客の喝采を博した。とはいえ、「山車を長者町に残すことは、保管場所や維持費の確保がままならないことから無理だ」というのが長者町ゑびす祭り開 催前の長者町の大多数の意見だった。力を合わせたことが長者町に残っていくことを企図したKOSUGE1-16 も、 長者町の負担を考え、山車を残すこと自体は半ば諦めていた。ところが、 曳き手らが練習を重ねて技量を向上させ、その結果山車の練り歩きを成功させた達成感が風向きを変えつつあった。
 あいちトリエンナーレ2010 終了直後の2010年11月1日(金)、山車の曳き手を主なメンバーとして、山車の存続を議論するための話し合いの場が、まちづくりNPO の拠点である 「まちの会所」で持たれた。長者町会場の展示が前日に終了し、保管場所が見つからなければ他の展示作品同様に山車を廃棄するしかなかった。解体したとしても、それなりの広さと高さと雨よけの屋根が必要だ。話し合うが、山車を保管できる場所が容易に見つからない。しかも、仮に保管場所が見つかったとしても、年間約50~100 万円が見込まれる修繕等維持・活動費をいかに捻出するかに頭を悩ました。山車を残したい気持ちはあるが、アイデアも浮かばないし、お金も足りない。議論が堂々巡りをし始めたころ、声をかけていなかった浅野隆司(長者町ゑびす祭り実行委員長:当時)が、たまたま顔を出す。事情を察し、その場で1本の電話をする。知り合いの看板業者に、郊外の倉庫を無償で借りられないかを相談したのだ。すぐに先方から前向きな返事をもらう。とにもかくにも、これで保管場所が決まった。
 その一方で、山車の維持・活動費は、後日若手経営者の1 人である佐藤敦(株式会社エフ ェクト代表取締役)が中心となり、寄金を募るアイデアが出された。お金の相談は、大口スポンサーとなる長老の理解がないと始まらない。11月19日(金)、長老格の山口兼市(名古屋長者町織物協同組合理事長/八木兵株式会社代表取締役:当時)と浅野の2 人を交え、山車の曳き手を主なメンバーとした話し合いの場が、株式会社八木兵錦1 号館の応接室で再度持たれた。佐藤は「山車の活動費を集めるという名目では地区全体の合意が得られそうにない。あいちトリエンナーレ2010 が終わっても長者町でアートに関する活動をし、そのための寄金を集めたい」と話す。山口が「やったらいいじゃない」と後押しした。
 こうして事業者の有志らが、長者町アートアニュアル実行委員会を設立し、11 月29 日 (月)、「錦二丁目長者町地区×あいちトリエンナーレ2010 サンクスパーティ」を、神田真秋県知事(当時)を招き開催する。そして、「長者町界隈アートアニュアル宣言」を発表し、 年間を通じて長者町界隈ならではのアートを発信し、アートイベントを継続的に実施してい くこととした。
 佐藤らが立ち上げた長者町アートアニュアル実行委員会は、2011 年には100 人を超える旦那衆から、2012 年には150 人を超える旦那衆から活動資金や人出などの協力をえて、山 車の練り歩きを毎年継続していく。そして、2012 年3月から「長者町プラットフォーム」 を、同年5 月から「アーティスト・イン・レジデンス」のそれぞれの供用を開始した。
 「アーティスト・イン・レジデンス」と「長者町プラットフォーム」は、広告代理店主である佐藤が、それまで使っていたえびすビルの事務所が手狭となり、問屋だったビルを新たに借り上げたことがきっかけとなった。佐藤の事務所以外のスペースに建築家らが入居した。 その建築家とはあいちトリエンナーレでアーキテクトを務め、かつ、長者町アートアニュアル実行委員会副会長を務める武藤隆である。その事務所の一部が「長者町プラットフォーム」 として長者町を拠点とする様々な団体のイベントやミィーテングのスペースとして利用された。
 なお、山車の練り歩きは、2016 年以降は、長者町アートアニュアル実行委員会に替わって、長者町ゑびす祭り山車部会が運営主体を担い、かつ、まちが山車を分担保管することと なった。よりまちが主体的に山車に関わることになったのだ。また、コロナ禍などで中止されているものの、今も継続されている。
 こうした山車の練り歩きなどの活動が核となり、あいちトリエンナーレ2010のサポーター活動をきっかけにした様々な若者らが、「長者町まちなかアート発展計画」、「Arts Audience Tables ロプロプ」などアートコミュニティを作って活動を行った。また、2011 年 8 月にはアートセンター「アートラボあいち」、2012 年5 月にはアーティストやクリエータ ーが拠点を構える「長者町トランジットビル」が設立された。「長者町トランジットビル」 をコーディネートしたのが、武藤勇である。名古屋でアートNPO「N-mark」を設立し、プロジェクト主体の活動を継続してきた武藤は、そのビルにアートスペース「N-mark B1」をオープンした。また、アーティストユニットAMR(浅井雅弘・前川宗睦・河村るみ/当時のメンバー)、山田亘(写真家)、村田仁(詩人)などが活動拠点とし、長者町での恒常的なアート活動を牽引していくのだ。

4.吉田の始末
 さて、吉田は、2010 年から東京藝術大学音楽研究科音楽文化学専攻芸術環境創造分野/熊倉純子研究室の扉をたたいていた。あいちトリエンナーレ2010 開催の際、次回の継続を本気で考えている県職員は、拝戸学芸員と吉田ぐらいだった。職員の多くは「次回はあるのか な」と他人ごとのようのだった。だからこそ、毎回約10 億円以上の税金を投じる芸術祭を継続していくためのビジョンを考える研究がしたかった。しかし、周囲には黙っていた。博士号を取る自信がなかったからだ。研究室の同級生に20 歳下の長津結一郎(九州大学大学 院芸術工学研究院助教:現在)がいた。長津と土谷は知り合いで、吉田有里を始めとした長者町関係者に、吉田が東京藝大に通っていることが、知られることとなる。
 嬉しかったのは、土谷が、「国際芸術祭推進室の事務職員が約30名いるなかで、吉田が30対1となって孤軍奮闘している」と吹聴してくれたことだ。筆者が現場の立場に立ち、ときには防波堤となって、国際芸術祭推進室・上司の要望を押さえたことが多々あった。 2009年のプレイベント前に、県幹部らは、まちなか展開の会場として、長者町でなく広小路を推してきた。広小路は名古屋有数の商店街で、商店街の有力者の要望があったようだ。 しかし、そもそも賑わった街で、空店舗・ビルがほぼなかったため、美術展の会場としては最悪といえるものだった。建畠監督はじめ現場は、長者町を推した。建畠は、そのときのことを、次のように振り返っている。

 だから、どうしても美術館の外でもやりたいと思って、拝戸さんにも頼んで、街を見て回っていた。それで長者町に出会って、見るなりここに決めたと。でも、県の人はみんな反対で、やるならもっと立派な広小路はどうかと言われた(建畠晢「芸術監督が振り返る『あいちトリエンナーレ』」『リア』No.40,2017,p13.)

 そうしたなか、長者町のモリリン荷捌き場を、あいちトリエンナーレ2010 プレイベント のオープニング会場とすることを現場主導で決めた。モリリンは、神田真秋知事(当時)の 地元一宮市の有力繊維専門商社である。神田知事がモリリンの社長の親族の結婚式に招かれることがあった。その際、神田知事は、当該会場を県に貸すことをモリリンの社長から初め て聞いたという。県幹部は、長者町が会場になる流れを嫌ったのだろうか、県知事の耳に入れてなかったようだ。神田知事が、県幹部らを叱咤したのはいうまでもない。これで長者町を会場とする流れが決まった。まさに神風が吹いたのだ。
 また、今だからこそ、笑い話として振り返ることができるが、上司を怒らせ、殴られる勢いで追いかけられ、国際芸術祭推進室を逃げ回った記憶もある。アートセンターを作る際も、 建畠監督に働きかけたり、室長を飛び越して、長者町の人たちと県民生活部長との面談の場を持ったり、かなり無茶もした。というのも、事務局の意向と現場の衝突は日常茶飯事だったからだ。
 これまでも上意下達の県組織で、現場の人間が下僕のように扱われ、意見が通らない理不尽を多々経験した。こうした組織では、自分の意見を押し殺し、それを積み重ねたものが、 出世の階段を昇っていくように、筆者には思えた。しかし、そうしたヒエラルキーが、アー トの現場では覆っていくのだ。旧来の権力構造を眼前で覆すかのようなアートに内在する反権力な特質や、常識を覆す力に惹かれたようにも思う。実際には、通常の意思決定と異なる多くの関係者、とくに専門家が当時者として関わることの要因が大きかったと考えられる。 とにかく痛快だった。しかしながら、管理者からすると、「吉田に現場は任せられない」との判断があったのかもしれない。筆者は、2年で国際芸術祭推推進室を離れることになる。
 腐った状況で出会ったのが、中﨑透・山城大督・野田智子の3人組アーティストユニット Nadegata Instant Party だった。吉田は、1市民としてボランティアで参加した。そうした ところ、筆者の気持ちを察して、「吉田さん、前回は職員として長者町を飛び回ったので、 今回は映像の中で飛び回りましょうか」と山城がある映像の主役に抜擢した。それを見た上司からは、「トリエンナーレ担当には、もう戻れないな」と言われる始末だった。

5.《STUDIO TUBE》
 ここからは、《STUDIO TUBE》の概要を振り返ろう。
 冒頭に紹介したが、Nadegata Instant Partyは、「口実」を創り上げ、それを実現していくなかで、「口実」と「現実」が入り混じっていく。《STUDIO TUBE》では、いかなる「口実」 が作られたのか。
 展示場所確保に苦戦するなか、長者町会場のボリューム感を出すために、吉田有里あいちトリエンナーレ2013 アシスタント・キュレーターは、中部電力本町開閉所跡地に狙いをつけた。2011 年まで実際に使われ、取り壊す予定だったが、まちの協力を得ながら幾度も中部電力と交渉を重ね、ようやく確保することができた。とはいえ、展示会場として使うには用途変更が必要で、必要な数百万円が用立てできなかった。そのため、延床面積が1,000 ㎡以上見込まれるにも関わらず、100㎡以下しか屋内が使えないという厳しい条件が課せられた。
 そうしたなか、吉田有里は、Nadegata Instant Partyがこれまで地域の人を巻き込みながら作品を作ってきたことから、「長者町で新しい作品を是非作ってほしい」と彼らに相談 を持ちかける。また、彼らが社会に対する疑問をポジティブに変換してきた作品を作ってきたことから、「愛知芸術文化センターで多かった原発と正面から向き合う作品群とは全く違 う視点で、『揺れる大地』というテーマに切り込んでくれるのでは」という期待もあったようだ。そこで生まれたのが、建物を回廊する空間を上手く使いながら、特撮スタジオで映画 を作るというアイデアだった。
 2013 年5 月から6 月の計3 回の説明会に、約130名が参加する。説明会といっても、 Nadegata Instant Partyのこれまでの活動の紹介に時間が割かれ、その時点では今回の作品は「怪獣が長者町を暴れる」「建物の周囲に巡らしたレール上を撮影カメラが走る」など 特撮映像を作りたいという程度の話しかない。「みんなの意見を聞きながら考えていきたい」 というスタンスだった。
 この説明会に参加したほとんどが、のちにクルーという名称で呼ばれ、制作をサポートす る。初めて集まったのが6月23日だった。会期までの前半は週1~2 日のペースで、自己紹 介を幾度も繰り返し、会場となった建物内を掃除する日々が続いた(写真4)。7 月17 日に 初めて全体ミーティングを開く。放送作家部、 大道具・小道具部、役者部、衣装部、映像部、 デザイン・広報部などに分かれた。ちなみに、 かなめとなる映画のあらすじは、主に放送作家部が担当しながら、皆でアイデアを出し合 った。

写真4 《STUDIO TUBE》クルーミーティング<br />
撮影:筆者
写真4 《STUDIO TUBE》クルーミーティング
撮影:筆者

 7 月中旬からは、ほぼ毎日20 名程度が参加する。メンバーの山城はプランができたプロセスを次のように話している[5]。

 一番初めは建物の周りにレールを走らせ、それで特殊撮影をして1 本の映像を作るぐらいしか考えていなかったが、クルーの募集をしたらたくさんの人が集まって、 「皆さんと一緒にどうなるんだろう」と思いながら、作っていくうちにこの撮影所を舞台にした7 本の映像作品を架空で作ってしまおうというプランになった。

 一方で、1 市民として参加した竹中純一は、当時の戸惑いを次のように話す[6] 。

 疑問だらけだった。7 本のネタ出ししたのが7 月の第2 週ぐらい。「今これかよ」 と思った。8 月10 日スタートなのに。何考えているのか。しかも、「15 分で考えろ」 と言われる。(セミで発電するという)思いつきを書いたら、それが翌週には採用されている。「いい加減だな、とにかく無茶振りインスタントパーティだな」と思った。

 竹中に限らず参加者は、誰しもが「こんな架空の設定が短期間でできるのか」と半信半疑だった。それでも、「そのスタジオが閉鎖されるにあたりオープンスタジオを開催し、これまで撮った7 本の映画を、関係者や地域の人たちに、ダイジェストで紹介する」という全体の構成が、おぼろげながら出来上がっていく。そして、オープニングまで1ヶ月を切り、「いざ(本格的に)作るという現実が始まると、(大道具・小道具の製作、衣装づくりなど)み んな作業に没頭していった」[7] という。

  7 本のうち主要な2 本の映画を紹介しよう。
 1 本目は「あるチュウVS フシチョージャー」である。中﨑が発電所内にあったネズミに注意喚起を促す看板から、歩く巨大ネズミ「あるチュウ」 が長者町を暴れることを思いつく。 長者町からイメージしたフシチョージャーと対決するストーリーを、クルーのシナリオを参考にしながら考えた。吉田は、フシチョージャーとともに「あるチュウ」と闘う正義のヒーローとして長者町を飛び回った(写真[5])。振り返れば、あいちトリエンナーレ2013 に県職員として関われない口惜しさ、もどかしさを、劇中主人公となり、昇華していたようにも思う。こうして参加者のそれぞれの思いをブラックホールのように受け止め、ごった煮の渦として巻き込んでいくのが、Nadegata Instant Partyの作品の真骨頂なのだ。
 2 本目は「STUDIO TUBE」最終作となる「エンディング」である。その映像では、中部電力開閉所の周囲に張り巡らされた木製レーンを、カメラを装着したラジコンカーが走る。スタジオ関係者や、地域の人たちが、走る車を取り囲みながら見送り、スタジオへの別れを惜しむ(写真6)。こうした架空の設定のなかに、このプロジェクトに関わったクルーたちの別れを惜しむ現実が、入り混じる。
 このレーンを1 ヶ月かけ制作したのが、中﨑の知人で画家の今井俊介だった。そのほか林 暁甫(プロジェクトマネジメント)・ポイ野(音楽)・河野元(映像撮影)らプロチームが、 作品制作をサポートした。こうして7本の映画のダイジェスト版や小道具が建物の回廊に配置され、架空の大仕掛けが作られた。 そこには、かつて中部地方の映画産業を支えた特撮スタジオ「STUDIO TUBE」 が閉鎖されるにあたり、最後のオープンスタジオを観客が楽しむという作品の口実が作られていた(写真7)。そ して、その口実は、いつしか現実に転倒していたのである。

写真5 SF『アルちゅうVSフシチョウジャー』<br />
撮影:山城大督
写真5 SF『アルちゅうVSフシチョウジャー』
撮影:山城大督
写真6 《STUDIO TUBE》制作風景 <br />
撮影:浅野豪
写真6 《STUDIO TUBE》制作風景
撮影:浅野豪
写真7 Nadegata Instant Party《STUDIO TUBE》(2013)、中部電力本町開閉所跡地、© Nadegata Instant Party
写真7 Nadegata Instant Party《STUDIO TUBE》(2013)、中部電力本町開閉所跡地、© Nadegata Instant Party

 中﨑は、「揺れる大地」というテーマ と今回の作品の意図について次のように語っている[8]。 

 電力施設を使うことは、最初から面倒くさいと思うところがあった。中電は東電とは別だし、震災を直接的に絡めることがいい感じはしない。「プロジェクト FUKUSHIMA!」に協力し、単純 な結論や主張は簡単にできる。しかし、実際、身近の現場の状況を簡単にいえることではない。シンプルイシューを主張するより、わからないものや今ある問題、作ってみてから思ったことも混じ るのがよい。仙台で停電し、避難所にいるとき、いろんな人が優しくなる。会社とかポジションがあり、決まりごとがある。そうした立場と関係なくコミュニティができてしまう瞬間を、震災ユートピアとして語られた。美術という場所は、そういう場面ができる。普通に生活していたら、飲み友達になっていないこの人たち、参加者が何人かいて、面白い。そういう場を作ることに価値があり、面白い。そこが少しできた。そういう状況が見える、見せられる。震災後に思った人との関わり方が、今必要とされている。チープなフィクションを作った。けど皆で作ったものがリアル。嘘と本当が、自分たちのテーマである。茶番があって、なかに入っていたとき本当のことが混じる。

 制作をサポートした約130 名のクルーのうち、中心メンバーは約20~30 名である。いずれもこれまで長者町に縁のない20~30 代の若者らを中心に幅広い年齢層が集まった。組織のコースに乗った会社員は、忙しくて参加できない。吉田も含めどちらかといえば、社会に居場所のない仲間が多かったように思う。皆で食事を作る。大人の仕事をしている傍で子どもが遊び、皆で面倒を見る。そうした風景が制作現場で毎日繰り広げられた。こうしたかつての日本のどこにでも見られたコミュニケーションの場こそ、東日本大震災後の日本の社会に中﨑が提示したかったかもののようにも思える。
 また、他のアーティストの制作現場と異なり、山城らから繰り返されたのは「我々の了解をとらずに、やりたいことをやってください」という点だった。作品制作のプロセスのみな らずその結果をも、アーティストの手から確信犯的に手放そうとしているようにも見受けら れた。
 クルーは、そのほとんどがアートやまちづくりに関心がなかったが、10 月の「長者町ゑびす祭り」に参加したり、皆で「瀬戸内国際芸術祭」を見にいったりした。閉幕後も毎月1 回程度の映画&映像鑑賞会など長者町での活動を始めた。アーティストは、作品制作のプロセスと結果をも参加者に委ね、自発性に働きかけたとまでいえないが、自発性にコミット(接触)していた。そうしたコミットがきっかけとなり、若者らの新たな活動の継続につながっていく。その活動は、「ムービーの輪」として数年間継続され、現在でもSNS 等でつながり、 不定期で交流の場が持たれている。
 また、クルーの中に、全く働かず、飲み会のときだけ酒をもってくる輩がいた。後で知ったのだが、彼は引きこもりだった。その後、数年たち、彼は、飲食店を立ち上げる。《STUDIO TUBE》をきっかけにして、酒をふるまい、楽しむことを仕事にしたいと思ったという。彼は、 クルーのメンバーと結婚する。また、プロジェクトの数年後、中﨑が名古屋を訪れことがあ った。夜も更け、お酒の勢いもあったのだろう、女性数人が、中﨑にハグを求めて別れを惜しんだ。非日常の居場所を見つけ、元気を回復して、自身も含め日常の社会に戻っていく姿を幾度か目にした。
 こうした活動が、あいちトリエンナーレのサポーター活動をきっかけにしてできた若者らの他のアートコミュニティとともに、まちづくりへの参加の幅を広げていった。 一方で、まちづくりとの距離感について中﨑は次のように語っている[9]。

 まちづくり自体は、僕はあまり興味ない。ナデガタ自体も3人とも興味はなくて、 ただいい作品を作るのに興味があって、そこにいろんな人が入ってくる。それがいい作品になることがすごく面白い。(中略)まちづくりという言葉はあまり好きではな いけど、僕らが作っている作品はそっち側の受けがよくて、まちづくりの人たちと共犯関係になる。美術的な批評のいい作品を作りつつ、まちづくりという方面からの批評としても機能するのは散々やっているから自覚的であるし、それが中心をぶらさないで関われるんだったら全然積極的にその人たちと協働していくつもりで、まちづくりを捉えている。

 KOSUGE1-16 がまちの人々の自発性に直接働きかけたのと異なり、Nadegata Instant Party は、人々の自発性にコミット(接触)しながらも、まちづくりにやや距離を置いていることが伺える。
 また、中﨑は、直近の大阪市立大学大学院都市経営研究科主催の講演会「現代アート入門」(中﨑,2021)で、美術史的文脈を踏まえ、Nadegata Instant Party のプロジェクトを次のような位置づけで話してくれた。

 モダニズムが、作品の自律性、(すなわち)作家の手から離れ、作品そのものが成立することを信じる傾向があったとしたら、今僕のリアリティとしては、「作品自体 が自律することが可能なのだろうか」というときに、いろんなものが互いにもたれかかって、自律しないでいろんな人が関係していき、一つの作品になっていくのではな いかという思考をとっている。Nadegataの仕事とかもいろんな人が関わりながらできていく。巨大化した抽象表現主義の絵画作品が、観客にとって額縁の枠の中のイリュージョンを鑑賞することから、絵画の中に入ったような錯覚というか、空間そのものを直接体験するような構造を獲得していったように、その延長として作品が作られる過程や状況に観客が入り込み、作品の内側に入ってしまう構造のようなものを一つ のテーマにしている。

 なお、冒頭に紹介した《STUDIO TUBE》の美的批評を試みた中村は、《STUDIO TUBE》の架空と現実の入り混じるさまを、「入子構造」と分析する。そのうえで、テーマパークとの類似性を指摘し、「従来型のノスタルディックな美的質にそっている」と美的批判をした。彼女の言説は、現時点では口頭発表のみとなっている[10](中村,2016)。

6.《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》の比較と文化政策的意義
6.1 《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》の比較
 ここまでで、《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》の2 つのプロジェクトをつぶさに紹介してきた。ここからは、両者の比較をしておこう(表1)。

 1 つ目に、作品づくりである。 《長者町山車プロジェクト》は、長老に歴史をインタビューするなど、長者町を丹念にリサーチすることから始めている。山車が戦争で焼失したことを知り、山車の制作を考えついたのだ。山車や祭りは、日本に限らず世界で、集落やまちでソーシャルキャピタルを形成する人間の知恵として行われてきたともいえよう。その山車を、アート作品として制作し、「山車が人々を支える逆転が起きるのでは」とまちづくりにつなげた発想に脱帽するほかない。 しかも、祭りや山車の行事は、歴史の中で慣例化し、やめることもできない。そこに自発性は少なく、むしろ排他性すら生まれてしまう。いつでもやめられ、様々な人々を巻き込むアート山車だからこそ、自発的活動を生んだともいえよう。
 また、KOSUGE1-16 のまち人々に対する立ち位置も紹介しておきたい。土谷からは、「アーティストはまちの八百屋さんだ」という言葉をよく聞いた。今回の執筆にあたり、改めてその意図を問うたところ、「町の人に『アート』や『アーティスト』を説明するときに、『趣味』 と考えられたり、または逆に『高尚な人』と捉えられたりしないように、町に着地している個人事業主として『八百屋さん』とか『本屋さん』とか、まあ、そういった商店を引き合い に出すことでチューニングを試みていたのだ」という。
 それに対して、《STUDIO TUBE》では、「揺れる大地」というあいちトリエンナーレ2013の テーマ設定や、東日本大震災後という社会状況を踏まえて、震災後のコミュニティがモチーフとなっていた。加えて、悪くいえば、計画性がないというところだが、良くいえば、参加者と協働で企画を練り上げていくのが、特徴である。
 2 つ目に、プロジェクトの対象者、いわばターゲットである。
 《長者町山車プロジェクト》は、長者町の事業者、とくに若手ら約10~20 名だった。当 時の長者町にとって、若手経営者らのまちづくりへの参画が課題だったところ、彼らに、山車の曳き手を持ち掛けたのだ。腹を割ったミーティングを幾度も重ね、あいちトリエンナー レ2010 での練り歩きが成功する。のみならず、翌年以降も長者町ゑびす祭りでの「山車の 練り歩き」が恒例行事となる。
 それに対して、《STUDIO TUBE》は、長者町の人たちをターゲットにせず、広く県民に向けて、参加者を募った。そうしたこともあり、中心メンバーは約20~30 名で、長者町に縁の ない20~30 代の若者らを中心に、名古屋市内外から幅広く集まった。とはいえ、組織のコースに乗った会社員は忙しくて参加できない。吉田も含めどちらかといえば、社会に居場所のない仲間が多かったように思う。
 3 つ目に、場所である。
 《長者町山車プロジェクト》は、旧モリリン荷さばき場を制作場所として、下長者町を中心に展開した。下長者町が、まさに長者町の中心街を形成する。
 それに対して、《STUDIO TUBE》は、下長者町とは桜通を超えて北側に位置する上長者町の中部電力株式会社本町開閉所跡地で展開した。
 場所自体は、アーティストが積極的に選択したわけではないが、展示場所や空間構成に関しても、《長者町山車プロジェクト》はど真ん中なのに対し、《STUDIO TUBE》は良い意味での傍流感がみられる。
 4つ目に、作品づくりとも絡むが、地域づくりへの関心である。
 《長者町山車プロジェクト》は、まちの人たちが山車を曳き、力を合わせることを企てるなど、作品を媒介として、まちの人たちの自発性に直接働きかけていた。まちに山車という面倒なアートを持ち込み、まちが山車を支えるのでなく、山車がまちを支える構造を企図する。地域づくりへの課題に、アートで直球勝負していたともいえよう。
 それに対して、《STUDIO TUBE》は、中﨑はじめ他のメンバーも「まちづくりに興味はない」 と断言する。より芸術作品を追求する姿勢が顕著である。一方で、その時代を意識した震災後のコミュニティをモチーフに作品を制作していく。そして、そのプロジェクトには、多くの参加者が関わった。山城から繰り返されたのは、「我々の了解をとらずに、やりたいことをやってください」という言葉だった。通常制作ボランティアは、アーティストの手足とな り、アーティストの指示どおりに仕事をこなすのが通常だ。やりたいことを自由にやるという、他の制作ボランティアとは全く違う風景が繰り広げられた。出来上がったものは、アマチュア感まるだしで、どこが芸術なのか、素人目には分かりづらい。嫌悪感を示す反応も少なくない。当時は、フェイスブックやツイッターが流布し始めた頃で、様々な反応を楽しんでいるようでもあった。こうした自主性、自発性を尊重する態度・場が、プロジェクト終了後も、自発的活動を継続する場へと変貌していくのだ。
 5 つ目に、アウトカム(成果)、インパクト(社会的影響)についてまとめておきたい。 まず、アウトカムである。《長者町山車プロジェクト》では、毎年の「長者町ゑびす祭り」 での山車の練り歩きを始めとした自発的活動を生じさせた。それに対して、《STUDIO TUBE》 では、それまで長者町に無縁であった若者らを巻き込み、長者町などを拠点に活動するアートコミュニティの1 つとして、まちづくりの参加の広がりに寄与した。 次に、インパクトである。2 つのプロジェクトは「地域に何を残したのか」の問いに対する答えと言い換えてもよい。
 《長者町山車プロジェクト》は、あいちトリエンナーレ2010 での山車の練り歩きが、ア ートアニュアル実行委員会の立ち上げにつながる。「アーティスト・イン・レジデンス」などの活動を生み、こうした活動が核となり、あいちトリエンナーレのサポーター活動をきっ かけにした様々な若者らが「長者町まちなかアート発展計画」「Arts Audience Tables ロプロプ」などアートコミュニティを作って活動を行った。また、アートセンター「アートラボ あいち」や、アーティストらが拠点を構える「長者町トランジットビル」が、設立される。 現在、若者らの活動に、かつての勢いはない。それでも、当時、長者町のまちづくりに、アーティスト、若者らが多様な人たちが関わることで、まちの人たちが、まちの魅力に気づき、 まちづくりの推進力となった。そして、いまでも、アーティストたちは、活動を継続し、「長 者町コットンビル」など新たな拠点も生まれ、いい意味で新陳代謝を繰り返している。アー ト山車がまちを支える関係にむけて、前進を続けているのだ。
 それに対して、《STUDIO TUBE》は、上記のアートコミュニティの1 つとして、ときには長者町での活動から外れながら、名古屋に居を構えた山城とともに、映像をテーマとした月1 回の活動を数年間継続した。現在でもSNS 等でつながり、不定期で交流の場が持たれてい る。
 もう一つ指摘したいことが、Nadegata Instant Partyや、その作品には、社会包摂への志向性があることだ。ひきこもりの経験を持つクルーが、《STUDIO TUBE》をきっかけに、酒 をふるまい、楽しむことを仕事にしたいと思い、飲食店を立ち上げた。彼は、クルーのメンバーと結婚した。彼を始め社会に居場所のなかった仲間が元気を回復して、社会に戻っていく姿を幾度か目にした。

6.2 文化政策的意義―地域づくりの成果
 以上の両者の比較を踏まえ、地域アートの文脈での文化政策的な意義を再確認しておきたい。
 KOSUGE1-16 の《長者町山車プロジェクト》は、まちの人たちの山車の練り歩きを継続させ、アートセンター設立支援、「アーティスト・イン・レジデンス」「長者町プラッとフォー ム」の供用開始、「長者町トランジットビル」の立ち上げなど、次々と連鎖反応を生む。また、サポーター活動がきっかけとなり、若者らが長者町で活動を行うことになったのだが、 Nadegata Instant Partyの《STUDIO TUBE》も、そうしたグループの1 つとなって、自発的な参加の広がりをもたらした。
 実は、長者町は、あいちトリエンナーレ開催前から、無関心層の存在など課題を抱えつつも、まちづくりNPO「まちの縁側育くみ隊」などが関わり、10 年間のまちづくりで活性化し ていた。そうしたところに、あいちトリエンナーレが開催され、当該2 つのプロジェクトなどが主要因となって、次々と上記反応が連鎖する大きなエネルギーが生じ、臨界点を超えて 自発性が著しく向上した。こうした自発性に着目して、吉田は、博士論文で、ソーシャルキャピタルが、単なる活性化でなく、プロアクティブ化[11]したと分析した。
 この点、吉田は、芸術祭、とくに都市型において、2 つのプロジェクトが相まって、地域に明確なインパクトを与えた稀有な例だと考えている。
 注目すべきは、その順番が絶妙であることだ。おそらく《STUDIO TUBE》が先で、《長者町山車プロジェクト》が後に実施されていれば、こうした長者町での成果は生まれなかったと思われる。《長者町山車プロジェクト》が、まちの人達の活動を促し、それを補うように 《STUDIO TUBE》が、参加の輪を広げたからだ。決して意図したものではないかもしれない が、吉田有里アシスタント・キュレーターの眼力というほかない。また、地域づくりに顕著に影響を与えたのが、主にこの2 つのプロジェクトであることも興味深い[12]。まちなかのすべてのアート作品が必ずしも地域づくりに直接的な影響を与えるわけではないのだ。
 言うまでもないが、2 つのプロジェクトを、別の時代に、別の芸術祭・アートプロジェク トで実施しても、同じことは起きないだろう。当時、過疎地では、芸術祭と地域活性化、都 市では、芸術祭と市民活動の関係が関心を呼んでいた。あいちトリエンナーレ2013 の直前には東日本大震災があり、芸術祭のコンセプトが「揺れる大地」とされた。そうした社会的 背景、時代の文脈に乗っかりながら、長者町のまちづくりの課題、参加者それぞれの思惑などが入り混じり、地域づくりの成果が作品として表現されたと考えられるKOSUGE1-16、 Nadegata Instant Party のアーティストならではの嗅覚を、リスペクトしたい。
 本節の最後に、吉田の立ち位置にも言及しておきたい。もちろん、アーティスト・キュレ ーターの最大の関心は、良い作品を作ることである。まちづくりの関心は、良いまちをつく ることである。「アートが地域を変えるのか」に一番関心を持ち、アクションリサーチャーのようなものとして、確信犯的にアートによる地域の変容を働きかけていたのは、筆者自身 だったのかもしれない。

6.3 アートプロジェクト論[13]と美的評価・美的批評、世界のアートシーンの位置づけ
 最後に、専門外であるが、アートプロジェクト論から美的評価・美的批評への応答を試みたい。
 《長者町山車プロジェクト》では、人々と山車の関係性がアートだという。そうした関係性という「美」が、まちの人たちの自発的活動を誘発したのではないか。そして、その関係 性という「美」こそが、地域のソーシャルキャピタルの形成やまちの人々のプロアクティブ 化を促したと考えている。
 《STUDIO TUBE》には、アートは作家が作るものなのか、アートの自律性への問いかけがある。そうした問いが、互いにもたれかかりながら、様々な人々が関係し、それが自発的な参加の広がりを生んでいた。この点において、中村は「従来型のノスタルディックな美的質にそっている」と美的批判をする。一方で、中﨑自身がチープと称したフィクションのなかにこそ、リアルに作られた「震災ユートピア」と思しき場をめぐる人と人の関係性、つまり 「美」を認めることもできよう。
 さて、いまだに不思議なことがある。《長者町山車プロジェクト》や《STUDIO TUBE》のよ うなプロジェクトがどうして生まれたのだろう。そもそも長者町のまちなか展開は、建畠の意向によるところが大きい。彼は、芸術批評誌[リア]の鼎談(建畠「芸術監督が振り返る 『あいちトリエンナーレ』」『リア』No.40,2017,p13)で、次のように述懐している。

 僕は、ミュージアムキュレーターとして、美術館だけで完結するのはつまらない。 最初に監督の話があった時に、街中展開を考えていたの。たしかオクウィが広州ビエンナーレで、アーケードの商店街を使っていて、目立たないけれどすごいいいなと思 った。ホウ・ハンルもイスタンブールで、ファッションメーカーが入っている工業団 地みたいなところを使っていて。だから、どうしても美術館の外でもやりたいと思っ て、拝戸さんに頼んで、街を見て回っていた。

 研究者となってから、世界の国際展とも称される芸術祭[14]を見る機会が幾度かあった。そのほとんどで、長者町のようなまちなか展開は見られない。《長者町山車プロジェクト》や 《STUDIO TUBE》のような住民参加型の作品を見ることは、稀である。国内でも、KOSUGE1- 16 やNadegata Instant Partyのように、参加協働型のプロジェクトが決して多いわけではない。 あいちトリエンナーレ2010 の芸術監督となった建畠は、「ミュージアムキュレーターとし て、美術館だけで完結するのはつまらない」と考え、まちなか展開を企図した。もちろん、 ドイツのミュンスター彫刻プロジェクトなど、地方都市でのまちなか展開の先駆例はある。 しかし、あいちトリエンナーレでは、大都会の都心の生きた町を舞台にし、特定のエリアに集中させ、加えて、美術館など専用施設を組み合わせた。そうした点では、建畠が、世界の 潮流に背を向け、都市型国際展の新たな発展型を提示したといえないか。そのようななか、 《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》の2 作品は、生きた町を舞台にしたまちな かプロジェクトとして、人と人の関係性を「美」と捉え、地域におけるソーシャルキャピタ ルの形成に寄与したという点で象徴的であったと考えている。 本稿が、アートプロジェクト論と美学を架け橋する議論が活性化するきっかけとなれば、 幸いである。

1. ソーシャルキャピタルは、①信頼、②規範、③ネットワークをいう。当該概念を広めたパットナムは、ソーシャルキャピタルが蓄積された共同体では自発的な協力が得られ、集合行為のジレンマ(dilemmas of collective action)が解決できるとしている。ここで集合行為のジレンマとは、各個人が不利益を甘受しあえば全員にとって望ましい結果となるが、各個人は自己の利益しか考えないことが合理的であるため全員にとって不利な結果が生まれてしまうことを指す。
2. とはいえ、10年前の出来事で、自身の記憶も風化し、おぼろげとなっている。本稿執筆の際は、博士論文や拙著『トリエンナーレはなにをめざすのか 都市型芸術祭の意義と展望』(水曜社,2015年刊)を参照・引用し、大幅に加筆した。
3. 「あいちトリエンナーレ2010プレイベント~長者町プロジェクト2009」は、2009年10月10日から11月15日まで、長者町地区を会場に開催された。「あいちトリエンナーレ」という名称や内容を県民に浸透させるとともに、長者町との協力関係を築くなどの目的があった。
4. 星野太の「リレーショナル・アート」の定義「作品の内容や形式よりも「関係(relation)」を重んじる芸術作品を総称的に示す」(星野太「artscape/Artwords(アートワード)」,2021)を参照した。
5.  2013年9月9日山城大督(Nadegata Instant Party)へのインタビュー。
6. 2013年9月9日竹中純一(Nadegata Instant Partyクルー)へのインタビュー。
7. 2014年6月18日山口明子(Nadegata Instant Partyクルー)へのインタビュー。
8. 2013年9月9日中崎透(Nadegata Instant Party)へのインタビュー。
9. 2013年9月9日中崎透(Nadegata Instant Party)へのインタビュー。
10. 発表内容については、2021年7月11日中村史子(愛知県美術館学芸員)への電話でのインタビューで確認した。
11. なお、ここでプロアクティブ化とは、すでにまちづくりで形成されていたソーシャルキャピタルを自ら(・・)進んで(・・・)活性化させたという顕著な現象を評するものとして使っている。
12. ナウィン・ラワンチャイクンの《新生の地》も、まちづくりに批判的な人を巻き込むなど、地域づくりへの起爆剤となった。だが、《長者町山車プロジェクト》と《STUDIO TUBE》を比較するという本稿の趣旨にかんがみ、割愛している。ことの詳細は、『トリエンナーレはなにをめざすのか:都市型芸術祭の意義と展望』(吉田,2015)を参照いただきたい。
13. 本来なら「アートプロジェクト論」とは何かを論じる必要があろうが、紙幅の関係もあり、本稿では、アートや表現の内容の良し悪しでなく、「プロジェクト実施(・・)に関する専門的知見」(中村,2016,p145)を総称する論としておく。その代表的著作が、『アートプロジェクト 芸術と共創する社会』(熊倉純子監修,2014,水曜社.)である。
14. ここでの芸術祭は、国際展ともいわれ、「①数か年の周期で、②現代美術を内容とし、③事業費が1億円以上で開催される」ものをさす。

引用文献・口頭発表等
あいちトリエンナーレ実行委員会「あいちトリエンナーレ2010/アーティスト」,2010, https://aichitriennale2010-2019.jp/2010/artists/contemporary-arts-street/kosuge1-16.html (2021-07-31最終確認)
星野太「artscape/Artwords(アートワード)」,2021, https://artscape.jp/artword/index.php/リレーショナルアート(2021-07-31最終確認)
熊倉純子監修『アートプロジェクト 芸術と共創する社会』,2014,水曜社.)
中村史子「アート、地域、プロジェクトそれを評するのは誰か」『リア』No.37号,2016,pp.144-148.
Nicolas Bourriaud,L’esthétique relationnelle, Presses du réel,1998
中村史子「地域で関係性を美学する」『愛知県美術館 リレートーク』,
2016 ,https://researchmap.jp/nakamurafumiko/presentations/31349305
(2021-07-31最終確認)

中﨑透「現代アート入門」『大阪市立大学大学院都市経営研究科都市政策・地域経済コース/ワーク ショップ』,2021,
http://gsum-upre.jp/workshop/(2021-07-31最終確認).

Putnam,Robert D.,Making Democracy Work:Civic Tradition in Modern Italy, Princeton,N.J:Princeton Univercity Press,1993.
(河田潤一訳『哲学する民主主義―伝統と改革 の市民的構造』NTT出版,2001,pp.200-231)

建畠晢「芸術監督が振り返る『あいちトリエンナーレ』」『リア』No.40,2017, pp.2-24.
土谷亨「かたい山車=めんどうな山車」『~長者町界隈の歴史・文化を刻む山車をまちのタカラモノ に~「長者町アートプロジェクト」寄付のお願い』(ちらし)長者町アートアニュアル実行委員会, 2011年.
吉田隆之「都市型芸術祭の経営政策―あいちトリエンナーレを事例に」博士論文,東京芸術大学音 楽研究科,2013年.
吉田隆之『トリエンナーレはなにをめざすのか―都市型芸術祭の意義と展望』水曜社,2015年.

謝辞
本稿執筆の際には、旧知の編集のF.アツミ氏(Art-Phil)に、貴重なコメントをいただき、校正を 手伝っていただいた。また、大阪市立大学大学院都市経営研究科院生、学部学生の諸君には、「都市 文化政策」「文化政策論」の講義で、草稿を読んでもらった。それぞれの学生の意見を聴き、「アート プロジェクト論から美学に架け橋できるのか?」を始めとしたディスカッションを行い、多くの示唆を得た。執筆の際は、博士論文や拙著『トリエンナーレはなにをめざすのか 都市型芸術祭の意 義と展望』(水曜社,2015年刊)を参照・引用し、大幅に加筆した。元原稿執筆の際はもちろん、本 稿執筆の際も、関係者の皆様にインタビュー等でご協力いただいた。この場を借りてお礼申し上げ たい。

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