プロジェクトアーカイブ #3 前編
プロジェクト3年目となる2016年度の旅の地は小笠原諸島。リサーチ旅のキーワードは「Nodus(ノドス)」。「Nodus」とは、「接点、結び目、もつれ、難しい局面」など複層的な意味を含むラテン語。独自のクレオール的多様性、「Nodus」を含んだ小笠原にて、ゲストディレクターやゲストリサーチャーをメンバーに迎え、複数のリサーチャーによる視点と考察の違い、それらが接触・交換する時に生まれる化学反応を観察・記録することに取り組みました。旅後には今回試みた「全記録」、「グループ型フィールドノート」の要素を織り込んだ報告会ライブを行い、最終成果物としては旅のエッセンスを綴った11枚のポストカードと地図ポスターをセットにし同封しました。地図の裏面には、3年目の活動内容だけではなく、これまでの3年間の活動を振り返った対談形式のテキストを配しました。
企画・監修: mamoru(サウンドアーティスト)、下道基行(美術作家/写真家)
デザイン:丸山晶崇(デザイナー)
[小笠原諸島]は東京から南に約1000km、父島列島、母島列島、硫黄列島などの島々からなる。火山活動によって生まれた島々は大陸と陸続きになったことがない[海洋島]。独自の生態系には[固有種]が多数存在。島の大部分は国立公園であり、また2011年には[世界自然遺産]に指定された。紺碧の海は[ボニン・ブルー]と呼ばれ[イルカ]、[クジラ]、[ウミガメ]を見ることができる。島へのアクセスは東京・竹芝港から6日に1便の定期船[おがさわら丸]にのり[24時間]。父島から母島へは[ははじま丸]にて2時間半。
「小笠原」の名の由来は、信州松本城主[小笠原貞頼]がこれらの島々を発見した、という伝承による。この人物の実在に関し諸説あるものの、江戸幕府は漂着民からの情報をもとに調査隊(1675)を派遣し島々を確認していた。当時の地図には[無人島]と書かれており、定住者はおらず、[無人]という言葉から英語名[BONIN ISLANDS]が生まれたとされる。19世紀、小笠原近海で[捕鯨]が盛んになり、燃料などの補給のために住み着いた米国人、英国人、ハワイ人数名が最初の定住者とされる。他にもロシア船が出入りし、英国は1827年に領有宣言を行った。1853年には[ペリー]が父島・二見湾(ポートロイド)に寄港し、港の最も良好な土地を燃料補給地として購入。こういった諸外国の動きに対し、江戸幕府は[咸臨丸]を派遣、和名の地名、島名を付した地図を作成し、八丈島から移民団を送り込み領有を試みた。明治になり、政府は小笠原諸島の[領有宣言](1876)を行い正式に領土とした。定住していた米・英・ハワイ系の住民の帰化が進められた。その後、これらの人達は子孫を含め[欧米系島民]と呼ばれるようになった。島々では日本語教育、殖産興業が進められ、八丈島、沖縄、本土からの[開拓移民]が増え人口は7000人を数えた。
日米開戦後、南方と本土の情報中継点であった小笠原諸島は攻撃の標的になり、1944年に島民は内地へ[強制疎開]させられ、硫黄島を含む島々は要塞と化す。戦後は米軍による[占領体制]のもと欧米系島民のみの父島帰島が認められた。強制疎開から25年、1968年に小笠原は日本に[返還]され、各地に転居していた[旧島民]の一部が帰島、再ジャングル化した島の再開拓が始まる。現在の人口は約2500人だが、戦後新たに移住した[新島民]、固有種やその生態系を研究する生物学者、歴史、文化、政治、言語、宇宙研究、農業研究に携わる研究者達など多種多様な人達が訪れ、暮らす。
[小笠原リサーチメンバー]
リサーチャー:mamoru(サウンドアーティスト)、下道基行(美術作家/写真家)、EAT&ART TARO(アーティスト)
ディレクター:森司(Tokyo Art Research Lab ディレクター)
記録: 川瀬一絵(写真家)
コーディネーター:淺井聖
耳を澄ますと風と波の音に混じって長く低い音が聞こえる。
港に停泊している船のモーター音だろうか。
そう言えばカフェの店主が、数年に一度、島の発電所が停止する夜があって、
さらに静けさが際立つんだよね、と言っていた。
小雨降る中、ガイドの方に戦争の歴史が深く刻まれた
島に残る史跡を案内してもらった。
翌日の夜、奥村という集落にある彼のバー
「Yankee Town(奥村のアメリカ占領時代の地名)」を訪れた。
昔はレゲエバンドもやっていたらしい。
この島に住む人達は様々な仕事や役割を持っているようだ。
小笠原の島々は陸と繋がったことがない。
島に息づく雑多な植物はその昔、鳥や海流や風が運んできた。
それらが隣り合い共生する様子は島の人々の姿と重なる。
小笠原には食べられそうな木の実がいたるところにある。
商店に売ってないけど自分で簡単に獲れるものもある。
小笠原は“食べられるらしいもの”であふれている。
ナンバープレートは「品川」だけど港区竹芝港から1,000km。
十分遠い、だけど訪ねるには遠すぎない。ここは東京都小笠原村。
人口は父島に2,000人、母島に500人、
定期船でやってくる観光客は一便最大で800人。
人が住み着いてから200年に満たないが、この島には常に人が出入りし続けている。
呼吸するように。日々新しく循環し続けている。島民の平均年齢わずか39歳。
島ではパンが人気だ。
6日に1回やってくる定期船が生み出す生活のリズム。
島にはたくさんの穴が開いている。
これらは古代人ではなく兵隊が掘ったもの。
明るい南国のこちら側とは違い、穴の向こうには暗い過去が繋がっているようだ。
みんなで入れる「新しい穴」を掘って使ってみたら、どんな経験だろうか?
小笠原の動物は警戒心があまりない、というより無防備だ。
絶滅危惧種のアカガシラカラスバトは近づいても全く逃げなかったし、
固有種のメグロ、メジロも目と鼻の先で可愛い姿を躍らせる。
植生を案内してくれたガイドさんの言葉によれば、
島の植物達も競争しなくて良いため
「香りがなくなり、色がなくなって、トゲがなくなる」そうだ。
父島に袋沢という場所がある。ペリー提督日本遠征記(1856)の中で
Kanaka Villegeとして紹介されている辺り。
最近一部の島民に“レインボーバレー”と呼ばれることもあるらしい。
島の地名にはいろいろな言葉とここに生きてきた人達の歴史が息づいている。
そして今も新しい名称を生みだしアップデートする人達によって、
この島の歴史はリアルタイムで作られているのかもしれない。