プロジェクトアーカイブ #2
近年、アートの現場で多様化しているリサーチをもとにした作品やプロジェクト。「旅するリサーチ・ラボラトリー」は特に他分野でも広く取り入れられているフィールドワーク的実践に着目し、様々なリサーチャー、各地の資料館、美術館などを訪ね、リサーチ手法、アウトプットやそれらにまつわる作法に関するグループリサーチを2014年からスタートさせました。
2014年は、ジャンルを問わず興味深いフィールドワークとアウトプットをされている方々をインタビューするため、ラボメンバー6人がレンタカーに乗って9日間、東京、山口、広島、大阪、京都、長野など各地を訪れました。旅の期間を「研究・開発」のフレームとし「成果物」を道中に制作・編集、ラボメンバーの一員であるデザイナーも旅中にデザイン案を練る事としました。移動車内の会話はインタビューの考察、咀嚼の場としてのみならず、「制作・編集会議」となり、旅の「成果」はひとつの「ライブパフォーマンス」としての報告会を経て、その書きおこしを元に再編集したテキスト、移動経路とお会いした方の簡単なプロフィールを掲載した地図、そのいずれからもこぼれ落ちた些細かつ印象的な出来事を綴った行動ログをセットにした印刷物になりました。
2年目の今年、再びレンタカーに乗り、12日間、新メンバーを含めて6人の旅を企画。改めて短期リサーチとしての「旅」という点を意識し、車内の濃密な時間を「編集会議」のみならず、インタビューの場とするべく「ゲストシート」を設けました。また車内を録音スタジオに見立て、ポッドキャスト番組を録音・編集し、旅先から配信することにしました。本成果物にはすでにオンラインで公開している全6回分の番組音声データに加え、旅にまつわるエッセイ、ドキュメントフォトを盛り込みました。番組では、旅中の出来事、インタビュー、訪ねた場所や考察を紹介することもさることながら、旅先ならではの音をちりばめつつ、自分達なりにコーナーを作ってみたり、興味を持って頂いた方々が楽しく聞けるように工夫したつもりです。是非お聞き下さい。
企画・監修:mamoru、下道基行
デザイン:丸山晶崇
写真撮影:下道基行
ドラマトゥルグ:山崎阿弥
アシスタントスタッフ:平石直輝、山岡由佳
日時:2015年8月26日 [rec: 23分57秒]
収録:深川隅田川近郊の車内(東京都江東区)
移動:三重ー東京
「芭蕉庵」のあった場所からポッドキャスト録音配信スタート。
日時:2015年8月27日 [rec: 29分08秒]
収録:日光口パーキングエリア(栃木県日光市)ほか
収録:東京ー日光
高速道路パーキングエリアより。
日時:2015年8月28日 [rec: 36分42秒]
収録:象潟へ向かう車内(秋田県にかほ市)ほか
移動:日光ー月山ー象潟ー山形
日光東照宮から象潟へ。映像人類学者・川瀬慈さん登場。
日時:2015年8月30日 [rec: 47分16秒]
収録:住吉漁港の車内(北海道函館市)ほか
移動:山形ー松島ー気仙沼ー陸前高田ー遠野ー青森ー函館
リアス・アーク美術館へ。
日時:2015年9月1日・2日・3日 [rec: 46分12秒]
収録:北海道移動中の車内ほか
移動:函館ー白老ー札幌ー阿寒ー羅臼ー中標津ー苫小牧
管啓次郎さんと北海道3日間の旅。
日時:2015年9月4日 [rec: 65分05秒]
収録:太平洋(フェリー内)、五軒町の車内(東京都千代田区)ほか
移動:苫小牧ー大洗ー東京
「一畳敷」のあった場所にて最終回録音。
[Podcast]
企画:mamoru、下道基行
番組企画・構成:mamoru、下道基行、山崎阿弥
録音・編集:山崎阿弥
デザイン:丸山晶崇
制作アシスタント:平石直輝、山岡由佳
Essay
「旅先から絵葉書を書いてくれない?」
いつも旅先から的外れなお土産を買ってくる僕に、妻はこんな課題を出した…。それ以来、旅先から自宅へ絵葉書を送るのが習慣になっている。
まず、旅先のお土産物屋やキオスクで、適当な絵葉書を選ぶ。
次に、時間を見つけて、公園のベンチに腰をかけたり、ホテルのベッドの上に寝転がったり、移動中の車窓を見ながら、紙にペンを走らせる。
「元気ですか?今、○○の××に来ています。こちらは……×年×月×日」
目の前の情景を描写したり、色々な事を書きながら、日本で流れているだろう日常の事を想像してみたりする。
書き終えた絵葉書に切手を貼って、街角のポストに投函する。その瞬間、自分の手から切り離され、旅立っていく。
絵葉書は、たぶん地元の郵便配達員や何人もの人の手を渡り、自宅のポストへと運ばれ、(時々僕が絵葉書を追い越して先に帰宅してしまう事や届かない事もあるが)、たぶん帰宅した妻が郵便受けから発見するだろう。
最近では、旅先でも毎日PCを開きメールを書くことが多くなった。ただ逆に、絵葉書は以前より増してメッセージを伝える事以外に特別な何かを発生させているように思うようになった。
それを言葉にすると、ひとつは、『遠くを想う』ことかもしれない。
遠くで暮らす家族や恋人や友人を想う(という当たり前の事)。この感覚は他に、僕の場合、旅先で目の前の海の向こうに異国の町並みを眺めた時や、自宅で深夜机に向かいながらつけたラジオからの声に耳を傾ける時にも発生している。この “遠く”には、“空間的な遠さ”を感じることに加えて、同じ時間を過ごしながらも、越えることのできない“空間の断絶”がそこにある。
そう考えるともうひとつ。絵葉書として旅先から送られた数日前の出来事を受け取った時、そこには“空間”以外に“時間的な遠さ”を感じているのではないか。それはどこか、古代の遺跡や遺物の欠片を手にした時の感覚に似ている。
そこには、“時間的な遠さ”があり、同じ場所に立ちながら決して遡れない“時間の断絶”がある。
絵葉書は、『空間的/時間的な断絶を感じ、遠くに想いを馳せる』為の小さな装置であり、メッセージを正確に伝えることやそのメッセージを正確に読み解くことからはみ出した豊かさを多いに含んでいる。
旅はそもそも日常からの“断絶”である。
別に遠くへ行かなくても旅ははじまるし、逆にも然り。
そして、目の前の“断絶”を受け止め、その先に思いを馳せる時、心の中に何かが生まれてくる。
(さらに、「それを結晶化したい!形にしたい!」という欲求への試行錯誤自体が、この『旅するリサーチ・ラボラトリー』であり、今回の『旅と詩・歌(うた)』『旅と地図』なのかもしれない。)
下道基行(美術作家/写真家)
1978年岡山生まれ。2001年武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。日本国内の戦争の遺構の現状を調査する「戦争のかたち」、祖父の遺した絵画と記憶を追う「日曜画家」、日本の国境の外側に残された日本の植民/侵略の遺構をさがす「torii」など、展覧会や書籍で発表を続けている。フィールドワークをベースに、生活のなかに埋没して忘却されかけている歴史や物語や日常的な物事を、写真やイベント、インタビューなどの手法によって編集することで視覚化する。
幕末から明治維新という激動の時代を生きた松浦武四郎。
16歳で家を出て、17歳から26歳までは日本中を巡り歩き、28歳から41歳にかけては北海道を探検した。その後も旅を続け各地を巡り、68歳から三重と奈良の県境にそびえる大台ヶ原へ三度登り、70歳で富士山に登るなど、71歳でこの世を去るまで生涯を旅に生きた。
沖縄以外の日本各地を巡り、歩いた距離は1万kmを超えるとされる彼が旅を志したきっかけは、生まれ育った環境にあった。
武四郎が生まれたのは伊勢国一志郡須川村、今の松阪市小野江町。家の前を通る道は伊勢神宮へとつながる道「伊勢街道」であり、江戸時代に多くの旅人が行き交った。
とりわけ60年を周期に起こるとされる「おかげ参り」は、旅人で道が埋め尽くされるほどすさまじく、この地方では旅人の腹を手早く満たすものとして、赤福餅をはじめ、さまざまな餅や、伊勢うどんと呼ばれる独特のうどんが生み出されてきたのだろう。
武四郎が13歳の頃に経験した「文政のおかげ参り」は、当時の日本の人口が3000万人ほであったとされるが、1年で500万人もの旅人が伊勢へと押し寄せてきたとされる。
そんな旅人の姿を見て、旅を身近に感じた武四郎は、16歳で初めて江戸への一人旅を果たす。見たことのない景色を眺め、その土地の言葉を聞き、郷土料理を味わい、多くの人々と交流し、いろいろな考え方を知ることは、武四郎にとって大きな喜びであり、旅を通してさまざまな価値観を受け入れる広い心を持った人間へと成長していくことができた。
その武四郎が、旅の中で常に持ち歩いたのが、野帳(のちょう)という手の平サイズの小さなメモ帳と、筆と墨を入れた携帯用の筆記用具入れ「矢立」(やたて)であった。着物の懐に「野帳」を入れ、帯に「矢立」を差して歩き、見た景色をスケッチし、聞いた話をメモする姿勢は、その後の北海道の探検でも活かされ、生涯変わらない武四郎の旅のスタイルとなった。
このようにお話をしていると、旅の資金はどうしたのかと、よく訪ねられる。武四郎は、石に字を彫ってハンコを作る篆刻(てんこく)を見よう見まねで覚え、各地でハンコ作りをして旅費を稼いだとされる。しかし、それだけではないだろう。一生に一度は伊勢参りをすることが人びとの夢であった時代である。伊勢国から来たと話せば、行く先々で歓迎されたにちがいない。そして、伊勢参りに行く旅人がいれば、実家への手紙を託した。そうした実家宛ての手紙が何通も残されており、武四郎は手紙を届けてくれた旅人を大切にもてなすよう実家にお願いしている。
武四郎は人づきあいも多彩であった。晩年は、不要となった紙に柿渋を塗って団扇を作り、それを持ち歩いては出会った人々にサインを求めた。残された団扇の数は少なくとも150枚以上あり、9代目の市川団十郎や勝海舟、シーボルトやモースのものがあり、それらは全て武四郎の手によってファイリングされている。
さまざまな土地を歩き、その景色を楽しみ、その土地の言葉や食文化に触れ、その土地の人びとと出会い交流を深め、さまざまな考え方を知る。
武四郎にとってまさに旅は発見の連続であったのだ。
山本 命(松浦武四郎記念館 主任学芸員)
北海道の博物館などと連携して全国の松浦武四郎関係資料を調査し、知られざる武四郎の姿を明らかにするなど、武四郎研究に努める傍ら、各地から招かれて講師を務め、武四郎を広く知ってもらえるよう取り組む。2001年から松浦武四郎記念館の学芸員を務める。
10代の頃、よく見た番組が「遠くへ行きたい」「日本紀行」「新日本紀行」でした。TVから流れるその映像は、とても魅力でした。自分の生まれ育った土地からは、遠く離れた、まだ見しらぬ街や、山や、海。そして、そこに暮らす人々。いつか自分の目で見てみたい。そこに立ってみたい。それが私の旅の原点でした。
大学に入ると、当時の若者がそうであったように、ユースホステル(YH)を利用してあっちこっち旅をしました。映像でしか見ることの出来なかった景色、風土の中に今自分が居ることの楽しさに夢中になって、年中あちこち旅していました。予算の関係で国内旅行しか出来ませんでしたが…。最初は学校が休暇中の旅でしたが、当時は、ちょうど「70年安保」の時代で、休講が多いことをいいことに、やがてオフシーズンにも旅するようになりました。そして、旅にも少し疲れ、飽きてきた時に、よく訪れていた北海道で、とあるYHに出会いました。
YHではチェックイン、アウトの時間が厳しく決められていた当時、昼間、そのYHに到着すると髪の毛の伸びた、ロングヘアーの可愛い女の子なら良いのですが、髭も伸びた不思議な人々が日中からたむろしていました。ちょうどヒッピーとかフーテンが若者文化だった時代、そんな人達が多く泊まっていたYHでした。真面目な学生(?)であった私は、一瞬ビビってUターンしようと思ったのですが、そんな人達に興味がわいて、そのYHに長く連泊することになりました。今までの自分の生活、環境、枠組みでは決して出会うことの無かった人々との会話、触れあい。それは、衝撃的な体験でした。「あ、こんな人もいて、こんな考えもあって、こんな生き方もあるんだ!」と。今までの自分、或いは自分の周りにいた人達とは全く違う、人生を歩み、考え方も違う人達から色々な糧を得ることが出来ました。知らない景色や風土を訪ねるのも旅だけれど、これも又旅の持つ魅力の一つの要素なんだと気づかされました。それは、それからの私の旅の仕方を変え、そして人生さえも変えていってしまいました。
自分がずっと旅を続ける事は出来なくても、次に来る世代の若者には、たくさん旅をして欲しい。そして、自分がそうであったように、旅を通して色々な事を体験し、色々な人と出会い、自らの人生を変えるまではいかなくても、それを考え直す機会になって欲しい。そんな旅する若者たちの、集える場所を作ってみたい、自分が旅で得たものを受け渡していく場所を作ってみたい、と考えるようになりました。
そして「旅人達の陽だまり宿 遠野ユースホステル」が生まれました。
今の若者は、ほとんど旅をしなくなりました。お金と時間をかけて旅しても、一番良い景色を見られるとは限らない。天候が悪ければ駄目だし、何かアクシデントに出合ったりして、そこにたどり着くことさえ出来なくなるかもしれない。今や、クリック一つで世界中の景色を見られるのだから、色々なリスクを背負って現地に行く必要なんて無い。と言うのが、その理由のようです。でも、それでは旅ではなく、単にWeb上で画像を見ているだけに過ぎません。生身の人間が現実にそこに行って、その風土の中で、風を肌で感じ、土地の香り嗅ぎ、響(おと)を聞き、そして人の営みに触れること、それが旅なのです。或いは、そこに行くまでの様々な過程が、旅なのです。
千人の旅人がいれば千通りの旅が有り、そこには千の人生が行き交っています。自分一人なら、一度きりしか経験できない人生で、そんな多くの人生に出会えるなんて、やはり旅って素敵だと思います。
紺川 滋(遠野ユースホステル オーナー)
兵庫県に生まれる。地元、関西の大学を卒業後地元に就職。サラリーマン生活に疑問を感じたのと、田舎生活がしたくて、北海道に移住。足かけ6年位、YHスタッフを経験。1979年、岩手県遠野市に「遠野ユースホステル」を開設。
発掘調査の現場では時として思いもよらぬ遺物や遺構に巡り合うことがある。40年も昔の話になるが学生の頃、都下の中世城郭で発掘調査のアルバイトをしていた。城を取り囲むお堀の調査である。3m以上も堆積した粘土のようになったヘドロを掘っていくと400年以上昔のカワラケや碗、漆器などが次々と出土する。一番多いのは木製品や木くずだが、その保存状態には目を見張るものがある。移植ベラで薄く土壌を剥いでいくと暗黒青色のヘドロの中から現代の生木と変わらない生々しい色をした木製品が顔を見せる。徐々に範囲を広げ全体を掘りだそうとすると、掘った先から酸化して真っ黒に変色してしまった。鮮やかだった墨書も判読が不能になってしまい、取り上げた後の保存処理が終了するまでの間は読み取ることが難しくなってしまった。非常に残念な思いと同時に、この遺物の本来的な姿を一瞬ではあるが垣間見た嬉しさが交錯する。
調査が終わって遺物の整理段階でも同じような思いをすることがある。1982年に調査を実施した羅臼町松法川北岸遺跡から、10世紀前後のオホーツク文化の遺物が多量に出土した。オホーツク文化とは5~6世紀にサハリンから北海道のオホーツク海沿岸地方に進出してきた北方狩猟民族の築いた文化である。発掘が進むにつれ2軒の竪穴住居の内部から木炭が出土しだした。この2軒は火災を受けた焼失住居で、屋根や壁、柱など多量の構造材の下に木製品が確認された。しかし、千度以上の熱に長時間さらされた為見事に変形し、粉々に粉砕されたものがほとんどであった。中でも「熊頭注口木製槽」と名付けた遺物は全長60㎝以上の木製層の一端に熊の頭部が彫刻されており、考古資料のみならず、美術資料としても秀逸な遺物であった。この遺物は200点以上の砕片になっており、一番時間のかかったものだが、復元途中で奇妙な模様が数か所に彫り込まれていることに気付いた。更に復元が進んでくると、この木製層は使わないときには伏せた状態で熊の頭の彫刻が正像となり、使うときには逆さまにすると熊の口が注ぎ口になり、容器の縁辺部に先端が傾いた二等辺三角形様の奇妙な模様が彫り込まれているということが解った。この模様はアイヌのエカシ(長老)に見てもらえばレプンカムイ・イトクパ、「沖の神様の紋章」ということになるだろう。つまりキムンカムイ=山の神であるヒグマと、海の神であるシャチが一つの容器に合体したものであることが明らかになった。近世、近代のアイヌ文化の根底となる二大神の信仰がオホーツク文化の中に明らかな形となって姿を現したのである。一般的にアイヌ民族の祖先とオホーツク文化を担った人々とは人類学的には全く異なる、とされているが5~6世紀にサハリンより渡来したオホーツク人が13世紀以降のアイヌ文化の成立に大きな影響を与えていたことが明らかとなった。
この「熊頭注口木製槽」を含め、炭化木製品は復元して形のうかがえるもの43点、他に土器や骨角器など総計260点が国の重要文化財として今年(2015年)9月に指定されたが、それまで世界の誰も見たことがない遺物でありしかも甚だしい変形のため、その復元には30年もの時間を費やしてしまった。申し訳なく思ってはいるが、時空を超えた発掘や遺物の復元作業に立ち会えたことは望外の幸せであった。
涌坂周一(羅臼町郷土資料館 前館長)
1976年より羅臼町教育委員会に学芸員として奉職。専門は考古学で、退職(2013年)まで、知床半島の17か所の遺跡の発掘調査に携わってきた。シマフクロウやオジロワシなどの保護や調査にも関わり1984年より環境省野生生物保護対策検討会シマフクロウ部会に委員として参加(~2012年)。1997年より環境省希少野生動物種保存推進員。
周囲からパソコンのキーボードのタイプ音。黙々と本やノートをめくる音。忙しさは感じない。ちょうど目の前の机からはペンで何かをノートに書付ける音、たった今、まっすぐの線を引いた様だ。背景には空調だけが鳴り続ける。私の机のすぐ左手側には大きな吹き抜けがあって、建物の1階から7階までがそれを囲む回廊上になっている。階段を登り降りする足音が静かで集中した音風景にアクセントを加えている。
オランダ王立図書館は中世以降の出版物を中心とした600万点以上の蔵書を持つ。その一つに1669年出版、アルノルドス・モンタヌスによる「東インド会社遣日使節紀行」がある。456ページの著述と100近い彫版画や地図によるこの大型本は、多くの誤解を含みつつも、西洋社会で初めて体系的に日本の歴史、文化、風俗を紹介した。冒頭に綴じられた地図を開くと長崎から江戸まで海岸線沿いに地名が小さく書き込まれている。例えば「Miaco」。見慣れない綴りからは、京の町並みを見たオランダ商人がメモをとる小さな声が聞えてくる。地図の内陸部は無作為に小さな山々で埋め尽くされており、江戸への道中で目にする事がゆるされた沿岸部からの風景が彼らにとっての「JAPAN」だったのだと知る。関東以北は唐突に断ち切られ、北海道は見当たらない。そう、彼らが旅した世界にはまだ終わりがなく、言葉とイメージによって記されたのは既知と未知の図形であり、興味と想像、人と物が向かった経路図なのだ。私はそれらに耳を傾け、知識、経験、想像を駆使し、彼らに同行しようと試みる。
昔から本を読むのが好きだった。私にとって本の声にじっと耳を傾ける行為は世界と関わる基本的な方法であり続け、旅心を備えるための練習であったと思う。しかし実際に旅をする事はただ想像するよりも現実的であり、時間、お金、知識と無知、そして見知らぬ何かへの最大限の興味を持参して行う創造である。それは文章を書く行為に近いかもしれない。何かを書き始め、決まり文句に終止し家路に着く。思いも寄らない展開を発見し見知らぬ裏通りに迷い込んでプランを変更。締め切りに追われ目的地をただ往復。はたまた衝動に駆られて放浪したり、場合によっては長く住む事もあるかもしれない。
「旅するリサーチ・ラボラトリー」は集まったメンバーとのやや特殊な旅である。第二回目となった2015年はポッドキャストを制作・配信。車中でラボのメンバー達とある程度の筋書きを用意し、経験したばかりの何かを伝え記すために、言葉をたぐり寄せ、探る様に会話をし、レコーダーをまわした。それを受け編集されたものを、聞き返し、アップロードするというハイペースかつ未確定要素も満載。そんな旅を終えオランダに戻り、一体その旅は何であったかと考えたりしながら、こうして17世紀の地図を眺めていると、総時間4時間に及んだ私達の録音・編集物もまた正確無比の地図ではなく、どこか不自然に断ち切られていたり、誤解した面白い地形が含まれている地図の様に思えてきた。旅を記すこと、そんな言葉がふと浮かぶ。
突然、後方でドアが開く、男性のやや大きな声(オランダ語なので内容はわからない)。別の部屋に移ったのか、声は離れて行く。どこからか電話の呼び出し音。誰かが応答したのだろう、すぐに音は止んだ。間もなくして閉館のアナウンスが聞える。私は本を閉じ、席を立った。重たい回転ドアを押して外に出ると通りの音が耳に飛び込んでくる。見慣れたオランダらしい曇り空だが風はほぼ無い。気温は14℃前後だろうか。冬の寒さはまだ感じない。
mamoru(サウンドアーティスト)
1977年大阪生まれ。身近な物や行為から生まれる微かな音をとりあげる「日常のための練習曲」、様々なロケーションにまつわる歴史上の人物、出来事などをとりあげ、資料リサーチ、インタビュー、現地でのリスニング・録音から過去、現在、未来/架空の「音風景」を書きおこした「THE WAY I HEAR」など、テキスト、インスタレーション、映像、パフォーマンス等、様々なメディアを用いて「聴くこと」から知りうる世界観を提示。最近の展示に「他人の時間」(東京都現代美術館)、レクチャー・パフォーマンス「想像のためのスコア」(国立国際美術館、2015)など。
special thanks:
横浜文孝、管啓次郎、前田雅代、増田雄、中野恭、山本命、白水公康、今和泉隆行(地理人)、山内宏泰、新沼岳志、服部浩之、西條林哉、山田美郷、北原次郎太、管啓次郎、工藤岳、伊庭靖弘、中村絵美、涌坂周一、松田健治、紺川滋、川瀬慈、下道華奈、山口ゆみこ、風間サチコ、金子由紀子、永岡大輔、藤木美里、森司、大内伸輔、芦部玲奈、中田一会、米津いつか (順不同、敬称略)
[旅するリサーチ・ラボラトリーⅡ]
企画・監修:mamoru、下道基行
デザイン:丸山晶崇
写真撮影:下道基行
ドラマトゥルグ:山崎阿弥
アシスタントスタッフ:平石直輝、山岡由佳
主催:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)
企画協力:一般社団法人ノマド・プロダクション
発行:アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)
Tel: 03-6256-8435
発行日:2015年11月30日